問題に行き詰まったら、新しい眼鏡をかけてみよう | 我が学習の変遷の記録(旧・宇宙わくわく共創局)

問題に行き詰まったら、新しい眼鏡をかけてみよう

私は、昔受験生だった頃から眼鏡をかけています。つまり、私は近眼だったわけです(今は老眼です:苦笑)。

これは私の人生において象徴的な出来事でした。つまり、受験生だった頃は、目の前の問題集や参考書に集中して、他の事はほどんど考えることをしないようにしました。「四当五落」と言う言葉があるように、とにかく睡眠時間を削ってでも、受験勉強に専念することが合格の近道だと言われていたからだと思います。

こうした姿勢は、身近なものに目を向け、すぐに結果を得る思考と結びつきやすかったと思います。もちろん、何ヵ月か先に行われる大学のことを考えて勉強すると言う形はとっていましたが、実際には、大学に行って何を学ぼうか、4年後の卒業時に何がしたいか、などと長期的な事は全くと言っていいほど考えていなかったのかもしれません。

しかし、大学に入ってみると、そこでの知識は、受験勉強のそれとは違い、近眼的なものではありませんでした。古今東西の歴史から、遠く未来を見渡す、言ってみれば、遠視的な視点を持たないととても対応できないものでした。

例えば、生物の歴史、人類の歴史、社会の発展の歴史、教育の歴史などを学びつつ、一方で今後の生物の進化の行方、人類の行方、社会のゆくえ、教育の行方なども見据えたとても壮大で、遠視的な見方を要求する内容でした。

さらには、それは、自分の興味のある分野だけの勉強ではなく、一般教養などで、自分の専門以外の領域である自然科学、なども含めて学ぶと言う拡大した視点を必要とするものでした。

このように私は、受験勉強から大学の学問と移る中で、近視的な視点から、遠視的な視点を持つ重要性に迫られていたわけです。

しかし、こうした遠視的視点への移行は、単に大学生だけに求められているものではなく、我々現代人すべてに求められていることではないかと思います。様々な問題が入り込み、過去の狭い枠組みだけでは解決がしにくい現代社会において、私たちの視点を狭い枠組みから、広い枠組みへと転換する事は誰にも求められているわけです。

人類社会が誕生した頃は、狩猟社会であり、目の前の人間たちの食料をどうするか、明日どう生きるかという、いってみれば、近眼的な視点が必要でした。しかし、人口が増大し、より多くの人々を養う必要が出てきたときに、これまでの近視的な視点から、遠視的な思考を持って、食料を確保するために農業と言う新しいレベルの人間の営みが発明されたわけです。そして、その後の、人類の発展の中で、人間は自然現象や、社会現象や、人間の営みをより長期的、広い視野で捉えることによって、さらに発展を重ねてきました。いってみれば、人間が生き延びるためには、近視的思考だけではなく、遠視的な思考を採用する事も必須だったわけです。

しかし、現代社会において、最近、近視的な思考を極端に助長する現象が広く見られているようです。それは、スマホの発展によって、相手から来たメールやメッセージに対して即座に反応するという「スピード反応文化」です。そこでは、常にスマホを持ち歩き、電子メールや、LINEや、WhatsAppなどのアプリ、あるいはFacebookなどのソーシャルメディアからもたらされるメッセージに対して、即座に反応することが当たり前のこととされています。そうした、「スピード反応文化」の中では、近視な思考にはまりやすく、遠く広い視点を持って深い思考をすることが難しくなってきます。

先ほども述べたように、現代社会は過去の枠組みが通用しなくなってきています。過去の近視的な枠組みを離れて、まったく新しい創造的な視点を持たないと対応できない問題が山積みになっています。

それは、私たちの日常生活の中でも同じことです。つまり、私たちは、日常生活の中で、お金のこと、人間関係の事、健康の事、私的活動のこと、家族や愛する人の事、仕事の事などで様々な課題を抱えるわけですが、これらを解決するためには近視眼的に、目の前の今現在のことだけをやっていればいいというわけではありません。

まず、目の前の問題を解決するためには、一旦その半径1メートルの地点からより高い位置へと視点を移動する必要があります。そうすると、これまで見えなかった他の要素や、領域が問題に関わってくることが見えてきます。それは単に今現在と言う視点だけではなく過去や未来と言う視野も視野目にに入ってくると思います。

その際に重要なのは、過去の狭い枠組みの中にとらわれ、過去からの枠組みを前提にダウンロードし続け、それにコントロールされていては、いつまでたっても、地べたに入いつくばり、高い視点を持つことができないと言うことです。

そこでは、過去からの枠組みのダウンロードを一旦保留し、ニュートラルな視点を持って、より高度な視点から物事を眺めてみる必要があるわけです。そうすると、先ほども言ったように、今まで見えていなかった他の要素や領域との関連も見えてきて、それまで気がつかなかったメリットやデメリットが見えてきます。

そして、より高い視点を持って問題をとらえることができることができるようになってきたら、次に、メタ思考を働かせて、その根底に流れる原理原則や法則やアナロジーを発見することが重要であると思います。

先日、娘と一緒に数学を勉強していたとき、私はとても感心しました。私は学生時代、数学を無味乾燥な同じ作業の繰り返しのように捉えていたことがありました。しかし、今回勉強した二次関数を改めて捉え直してみると、これは物事の中にある法則を発見し、未来を予測するということに直結していることであるということに気がついたのです。

学生時代、目の前にある数式をグラフにしてそれで終わりという感覚がありましたが、このグラフを描くと言う作業は、未来における業績を予想したり、空を飛び交っている飛行機や、海を進む船が衝突しないコースを見つけるために重要になっている考え方がそこにあるということに気がついたのです。もちろん、実際の物事はそんなに二次関数のように単純化できないと思いますが、考え方は共通していると思います。

もし私たち人類が、自分の乗っている飛行機だけ、あるいは船だけに近視的に集中していたら、それこそ多くの事故を生み出し、私たちの人間社会は成り立たなくなっていたでしょう。また、業績や成績を考える場合にも、目標を持たずに、あるいは見通しも持たずに、目の前のことをただやってるだけでは、その後の成長も鈍ってくるでしょう。そうならないためにも、自分たちのやってることを高い視点から理解し、その根底を流れる法則を発見し、それに基づいてある程度未来を予測するという力が必要になってくるわけです。

娘と勉強していて、娘がそれまで見えなかった数学の法則を発見した時の、感動した表情は私の脳裏に深くやきつきました。それまで、どうしても見えなかった法則性が見たとき、人間は意識レベルを拡大することができ、問題の解決に結びつくことができるのだと思います。

手前味噌ですが、そうした娘の新しい発見、すなわち、近眼的な視点から、遠視的な視点をもたらした1つの要因は、私の娘の成長を願う愛であると思います。これは、何も私たち親子だけに当てはまるものではなく、人間社会一般にも当てはまるものだと思います。

つまり、近眼的に物事を捉え、問題にはまり込んでしまっている時、実は、誰にも24時間365日もたらされている様々な形の愛を発見した時、視野が広がり、より高い次元から物事を解決できるのだということを確信することができるのです。

近眼的な視点だけではなく、遠視的な視点を持つことで、私たちが抱える道を生活はより解決へと大きな一歩を踏み出せるのだと思います。そして、誰にも愛がもたらされている以上、それはすべての人に可能だということです。

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今日も読んでいただいて、ありがとうございました。

オーストラリアより愛と感謝を込めて。
野中恒宏

【参考文献】