天上界の「道元」9号

 

2024年6月12日

 

 

禅の「真髄」とは

 

 

 最後に、禅の「真髄」とは、一体何か。

ここで考えてみよう。

 

 わしが思うに、それは「一如(いちにょ)の精神」にある。「一如の精神」とは、相反する2要素を同時に考える、ということだ。

 

 同じであって同じではない違っていて、違わない、ということだ。

 

 まるで禅問答だな。

「同じであって、同じではない」。

そして、「違っていて、違わない」とは、どういうことか。

 

 

 

「違っていて、違わない」とは

 

 

 

 地球上には、たくさんのいろんな生物が生きている。

細菌、菌類、アメーバなどの微生物がいる。

 

 犬、猫、鳥、蝶がいる。クジラなどの巨大生物もいる。動物のほかに、植物も生きている。

 

 それらの違った生物でも、その遺伝情報の仕組みは、皆同じだ

 

 そのDNA・遺伝子の構造、仕組みは、地球上の生命すべてに「共通」している

 すなわち、わずか4種類の「塩基」である。

アデニン、チミン、グアニン、シトシンの4種類だ。

これには例外はない

 

 また、ⅮNA→RNA→タンパク質  への流れも、皆同じだ。すなわち、複製→転写→翻訳 という流れと、置き換えることができる。

 

  これを遺伝情報伝達の「セントラル・ドグマ」という。地球上の全生命「中心原理」となっている。

 

  だから、地球の生物は、すべて同じ仲間だ。

人類皆兄弟というが、本当は「生物皆兄弟」である。

 

  自分の大腸の中に生きている大腸菌も、また庭を歩いているアリも、われわれ人間と全く同じⅮNA→RNA→タンパク質への流れだ。だから、「違っていて、違わない」ということになる。

 

 

 話を戻すが、「一如」とは、相反する2要素を同時に考える、ということだったな。

 

 すなわち、生と死、迷いと悟り、不幸と幸福、剣と禅、心と体、などだな

 

 これらの「相反する2つ」「等価」と考え、「一如」で結んでみると、

 

生死一如(しょうじいちにょ)、迷悟一如(めいごいちにょ)、禍福一如(かふくいちにょ)、剣禅一如、心身一如、などの言葉となる。

 

 するとそこにある種の「発見」が生まれ、思考の「質的変化」が生ずる訳だ。

 

 究極的には、「生死一如」の境地だろうか。

 

  この世に生を受けた多細胞生物は、オスとメスへ性分化したために、寿命が発生し、いずれ死を迎える

 

 しかし、生命の設計図である「DNA」と言う遺伝情報は、子孫へ延々と「継承」されていくのだ。

 

 個体は死んでいくが、その生命情報は死なずに代々、子孫へ引き継がれていく。

 

死ぬ」ものと、「死なない」もの、という「相反する2つ」のものが、1つの生命を形成しているのだ。

 

 このことは「死なないもの」があるからこそ、死んでいくとも言える。

 

 人間の常識は、生きていることと、死んでいることを明確に区別するが、真理の世界では、「死と生」「同居」しているのだ。

 

 

 

「生死一如」(しょうじいちにょ)とは

 

 

 

「生死一如」とは、どういう意味か。

 

 必死で生きる。死んだつもりで生きる。死を見切れば生が観える。死を覚悟して事に臨む。死を前にしてジタバタしない。

 

 などの表現があるが、「言うは易(やす)し、実行は難(かた)し」だ。

 

 命あるものにとって死は怖い。それは遺伝子に組み込まれた「本能」だからだ。理屈ではないからな

 

 そのことは動物の行動を見ていてもすぐ分かる。餌を探す時も、用心に用心を重ねる。周囲に敵はいないか全身のアンテナを張り巡らす。

 

戦国時代の武士たちが、禅修行に求めたのも、「生死一如」の境地を求めてのことだ

 

 武士にとって真剣で戦い、負けることは、即死を意味する。それだけに「必死」にならざるを得ない訳だ。

 

 だから、生死をかけた究極な場面で、自分の力を出し切れる「ゆるぎない心」を作ることが、第1となる。

 

 

 

「不動心」とは

 

 

 そういうことで、武士道の「中核」にあるものは、いざという時は、死をも恐れない「不動心」と言える。

 

 つまり、いつ、いかなる時でも、不名誉恥ずべき行動はとらないという「覚悟」だ。

 

 そこにある精神とは、己の欲望を抑制し、相手を敬い、愛し、感謝する精神である

 

 人間としての「人間力」と「品格」を高めていく精神性だ。

 

 

美しい精神性

 

 

 このように、天に恥じない生き方、美しい生き方、かっこいい生き方として、武士道が形成されていった。

 

 生命には、己の命を守り次世代へつないでいく使命がある。そのために己の欲望が「本能」として、遺伝子・DNAに刻まれているのだ。

 

 その最たる本能が「食欲、性欲、所有欲」であり、「死にたくない心」である。

 

 しかし、その欲望が時として、自己中心的で、美しくない人間を生む。己の欲望に負ける生き方だな。

 

 

 

 「剣禅一如」とは 

 

 

 そういう己の弱さに負けない「克己心」(こっきしん)を求めて、が武士の修行となった。剣禅一如(けんぜんいちにょ)である。

 

 静かに座り、坐禅を組み、己自身と向き合い、死の恐怖を克服し、己の欲望に負けない美しく、品格ある武士を目指したのだ。

 

 日本の武士道と禅の「融合」である。

 

 次号へ続く。