天上界の「道元」3号

 

 2024年6月6日

 

 

「自己成長」こそ、禅の究極目標!

 

 

   相反する2人「同時存在」が、自己を成長させる。

すなわち、人間としての「自己成長」こそ、禅の最終目的である。

 

  その真髄を表すために、道元は大著『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)を書いた。

   その『正法眼蔵』が、800年間も、日本人の心に生き続けているのだ。

 

  その道元も、54歳で天上界へ召された。

 

 

坐禅に「意味」があるのか

 

 

  天上界の道元はつぶやく。

 

  坐禅は、禅修行の中心だが、最も苦しくつらいものだ。

坐禅では「無の境地」を目指せというが、「言うは易(やす)し、実行は難(かた)し」だよ。

 

 痛くてたまらんからな。加えて、しびれもある。

とても「無の境地」にはなれん。

 

  朝の40分はまだ我慢できる。ところが夜の120分は長い。痛みと痺れをこらえるのが、精いっぱいじゃ。2時間は長いな。

 

  とくに永平寺は、きびしい寒さに、足先が突き刺さるように痛い。何しろ零下マイナス10度だからな。

しかも素足(すあし)だ。僧堂の外には2メートルもの雪が積もっているほどだ。

 

  わしも初めのころは随分と苦しんだ。こんな苦しみいっぱいの坐禅に本当に意味があるのか、悩んだ

 

  しかし、不思議なもので、時が経つにつれ、その痛みにも慣れてきたんじゃ。

 

  だが、慣れたといっても、やはり痛みと痺れは出てくる。場合により睡魔も襲ってくる。雑念も沸く。無の境地には、程遠いのが実態じゃよ。

 

 

「不条理」が「条理」を生む!

 

 

  そういう坐禅に本当に意味があるのか。疑問が出てくるのも無理はない。

 

  だがそういう疑問を、先輩には聞けない。恥ずかしいからな。わしもそうだった。

 

  そこで随分と自分で考えた。そういう坐禅に本当に意味があるのか、ということをな。

 

  そして、自分なりの「答え」を見つけた。

本当の「悟り」とは、苦しんで、苦しんで、耐えて、耐えて、それを乗り越えたところに出てくる、ということだ。

 

  水の中に棲んでいる魚は、自分が水の中に住んでいることは分からない当たり前のことだからな。

ではどうしたら水の存在を知ることが出来るのか。

 

  知るためには、今いる場所からいったん外へ出てみる必要がある。水の中から飛び出して、水のない外の世界を知る必要がある。

 

  人間の場合も同じだ。今この場所に我々は坐禅している。それを可能にしているのは、この場所に「空気」があり、「呼吸」できるからだ。

 

  しかし、そのことは「当たり前」すぎて気づかない

だから、いったん水の中に潜り息を止めてみると、空気の「ありがたさ」分かる

 

  つまり、今と「反対の世界」に身を投じてみるということだ。すると「今の世界」のすばらしさが分かる。

 

  坐禅も同じだ。坐禅をして、痛みで苦しんで、がまんをして、何とか乗り越えたその先に、「至福の瞬間」が出てくるのだ。

 

 

「当たり前」の中に「奇跡」あり!

 

 

   わしの体験を話そうか

わしも坐禅を始めたころは、全身が痛くて本当に大変だった。何度も途中でやめようと思った。

 

  しかし、皆も頑張っているのを見ると、簡単には止める訳にはいかない。やはり恥ずかしいからな。

 

  そういうことを繰り返していたある日のことじゃ。

痛みを我慢した坐禅を終えて、朝の食事をしていた時に、ふっと、中国で出会った老典座(ろうてんぞ・料理人)の顔が浮かんだ

 

  そして、その時に老典座が言った言葉の意味が分かった。坐禅を行うことも大事だが、最も大事なことは「食べる」ことだということをな。

 

  よーく考えてみると、命を養い生きるためには、食べなきゃならない。食べることは、この世で根幹にある。

 

  しかし、その最も大事で根幹なことが、なぜか当たり前すぎて気づかない。

 

  わしはそのことに気づいてから、目の前に見えることが、まったく「奇跡」なことだと「感謝の心」が自然に湧き出てきた。

 

 

「生きている」ことは「当たり前」か

 

 

  人間はなぜ「生きて」いるのか。

 

空気があり、があり、太陽の光と熱があるからだ。

そして、米、野菜、肉、豆があるからだ。その前提として、土地があり、建物があるからだな。

 

  普段は「当たり前」すぎて気づかないことが、実は本当に「すごい」ことだということに、気づいた。

 

  すると不思議なことが起きた。

 

  その「感謝の思い」は、その後の坐禅の痛みさえも「ありがたい」と思えるようになってきたことじゃ。

すると、痛みがすーと消えていった。

 

  これには自分でも驚いた。この驚きはこれまでの坐禅に対する見方を一変した

 

 

「苦」と「解放」の同時存在が、悟りを生む!

 

 

  すなわち、ただ座る。座って苦しんでみる。座ること自体に意味があると思った。そういう意味で、坐禅自体を「目的化」したんだよ。

  これを「只管打坐」(しかんたざ)という。

 

  栄西の臨済宗では、「悟り」を求めるために、坐禅する。しかし、わしの曹洞宗では、悟るための坐禅ではない、坐禅自体が悟り、だと定義した訳じゃ。

 

  どういう意味かと言えば、坐禅をして、苦しんで、苦しんで、その苦しみから解放されたときに、何かに気づく

 

  苦しみと「解放」同時存在だよ。するとそこに自分なりの「悟り」が出てくる、という仕掛けだよ。

 

  まー結果的には、臨済宗と同じことかもしれん。

わしは、坐禅は悟りを目的としてはいけない、と先ほど述べた。

 

  しかし、わしのそもそもの出発が、「悟り」を求めるために、出家したことだった。

  というのは、

 

本来仏であるならば、なぜ、わざわざ「修行」が必要なのか?

なぜ生きているうちに「極楽」はないのか?

本来の「仏道」とは何か?

 

  という疑問から、出発したからだ。

 

 矛盾するようだが、修行僧は、最終的には、なんらかの「悟り」を求めて修行している。これが多くの姿だと思う。

 

  しかし、初期の段階から、坐禅自体に「悟り」を求めると、大きな「挫折」を味わうことになる。

 

   なぜなら、慣れない段階では、坐禅自体は、痛みと痺れ、そして、睡魔との戦いだからだ。

 

  そういう挫折感から「自由」となるために、坐禅自体を「目的化」した訳だよ。

 

 

  次号へ続く。