天上界の「道元」1号
2024年6月4日
「末法の世」に生きた道元
道元(どうげん)は、禅宗・曹洞宗(そうとうしゅう)の開祖である。1200年1月に生まれ、1253年8月に亡くなっている。今から800年前後の鎌倉時代(1185年~1333年)である。
13世紀の始め、当時政権を握っていた鎌倉幕府の源氏(げんじ)は、三代将軍の源実朝(みなもとのさねとも)が暗殺されて、わずか三代で滅んでいる。道元が20歳の多感な時だ。
代わって、北条氏が政治の実権を握るが、間もなく後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)を中心とする朝廷との抗争が勃発し、承久の乱(1221年)という内戦となる。
加えて、1230年から31年にかけて、日本全国に大飢饉が発生。それに悪疫も重なり、京都市中は、餓死者と疫病死者の死骸であふれた、と史書が伝えている。
そういう「末法の世」(まっぽうのよ)と呼ばれた時代を生きた道元であった。
54歳の生涯だが、多くの著作を表し、『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)は95巻の大作だ。
45歳の時に、福井県に曹洞宗の大本山・永平寺(えいへいじ)を建立(こんりゅう)している。
道元は、3歳で父を亡くし、8歳の時には母をも亡くした。10歳にも満たない幼年に両親を亡くした「悲しみ」は、計り知れないものがあったと思われる。
13歳で出家した!
その悲しみから逃れるように、道元は13歳の時に、叔父のいる比叡山(ひえいざん)の寺を訪ね、出家(しゅっけ)の意思を述べている。
出家を認められ、仏道の修行に入るが、そこで「悉有仏性」(しつうぶっしょう)という言葉に出会う。
「悉有仏性」とは
「悉有仏性」(しつうぶっしょう)とは、「人は誰もが本来仏である」という意味だが、「本来仏であるならば、なぜ、わざわざ修行が必要なのか」という疑問を、道元は持つに至る。
道元には、さらにもう1つの難問があった。それは母が亡くなるときに、言われた言葉だ。
母が言った言葉とは「人は死ぬと極楽へいくと言われているが、なぜ生きているうちに極楽はないのか」という大いなる難問である。
その2つの問題を求めて道元は、24歳の時に、中国の宋へ渡った。
その中国の宋で「正師」を求めているうちに、ある1人の老典座(ろうてんぞ)に出会う。典座(てんぞ)とは、お寺の料理人のことだ。
その老典座に、道元は尋ねる。
「あなたのような高齢な僧ならば、料理番は若い僧に任せ、なぜ本業の坐禅修行に勤めないのですか?」
その老典座は、笑いながら答える。
「あなたは本来の仏道の意味が分かっていない」
道元は、さらに問う。
「本来の仏道とは何ですか?」
諭すように、老典座が言った言葉は、
『本来の仏道とは、「行住坐臥」(ぎょうじゅうざが)、「眼横鼻直」(がんのうびちょく)のことだよ』
「行住坐臥」とは、日常の当たり前のこと。
「眼横鼻直」とは、眼は横であり、鼻は縦についていること。
すなわち、当たり前の中に、本当の仏道がある、という意味だが、当時の若い道元には、その真意は分からない。
しかし、その老典座が言った言葉に出会えたことが、道元をしてのちに、「禅の真髄」を悟らせる「きっかけ」となったのだ。
4年間の修行を終えて、道元は帰国する。道元28歳の時である。それから月日が4年経ち、32歳になったときに、大著『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)第1巻に取り組む。
道元は、54歳の亡くなるまでの22年間にわたり、『正法眼蔵』を書き続け、最終的には95巻もの大作となる。
仏道をならふといふは、自己をならふなり
その『正法眼蔵』の「現成公案」(げんじょうこうあん)の中に、次の有名な言葉がある。
「仏道をならふといふは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、自己の身心、および他己をして脱落せしむるなり」
この意味するところは、
「仏道を習うということは、自分自身を知る事なり。
自分自身を知るとは、小我の自分を超え、本来の自分(大我の自分)を知る事なり。小我の自分を超えて、大我の自分に出会うと、仏の世界に至る。これこそ至福の境地である」
つまり、小我(しょうが)の自分を乗り越え,仏である大我(だいが)の自分を知るためにこそ、修行が必要だということだ。
次号へ続く。