小噺シリーズ(10)
塙 保己一(はなわ ほきいち)の小噺
2024年5月18日
江戸時代の著名人として塙 保己一 という人がいる。埼玉県児玉町の生まれである。
目が全く見えない全盲(七歳の時に失明)であるにもかかわらず、「群書類従」(ぐんしょるいじゅう)という666冊の大文献集を完成させた大学者である。
今日においても、この「群書類従」なくしては、日本古来の文化やその精神を知ることは難しいとさえ言われている。
当時、日本古来の文献が、日本全国に散在していた。
それらの散在していた1273種類の文献を、全部収集して、25の部門に分類し、整理して、さらに要約して、全530巻・666冊にまとめたのだ。この大文献集を「群書類従」という。
この大事業は、保己一が、江戸幕府の援助を受けて、「和学講談所」という国学の研究所を設立し、そこで、1779年~1819年の40年間にわたって行われたものである。
1909年に、塙 保己一の偉業を顕彰するとともに、その膨大な遺産である版木の保存を目的として、温故学会会館(東京渋谷にある)が建設された。
この事業を推進したのが、同じ埼玉県出身(深谷市)の渋沢栄一である。大蔵省を辞めてから、民間経済界に入り、第一国立銀行、王子製紙、大阪紡績会社など500社を設立した。91歳でなくなった。
塙 保己一、渋沢栄一、荻野吟子(おぎのぎんこ) の三人を「埼玉三偉人」という。荻野吟子は、日本での女医第一号である。
さて塙 保己一 は、このような偉業を、どのようにして成し遂げたのであろうか。当時、現在みたいな印刷技術は、もちろん無かった。
そこで木の板に、一文字一文字、丹念に彫り、それを一枚一枚、印刷していったのだ。版木の数は、1万7244枚という、膨大な数にのぼったらしい。
まさしく文化的な大事業であった。その企画、資料の収集、校正、印刷、出版、を、全盲の保己一が中心となって成し遂げたのである。
さらに、「和学講談所」という、現在の大学ともいってもよい国学の学問所をも創設している。
このような保己一の大事業を支えたものが、般若心経の読誦(どくじゅ)であった。
目の不自由な保己一が、このような大事業への挑戦をするにあたって、神仏の応援を得るために、ある決意をした。
その決意とは、般若心経の100万読誦(どくじゅ)を、神仏前に誓ったのである。
保己一は、この誓いを、死ぬまでの43年間、毎日、朝の三時過ぎから、百巻ずつの読誦を続けたという。
それほどの深い「思いと決意」を、入れての般若心経の読誦であった。人間のもつ一念のすごさが、そこにはある。
塙 保己一は、7歳のとき眼病を患って失明した。
15歳のとき、鍼灸の修行のため江戸へ出た。
しかし、生まれながらに不器用であったために、鍼灸の道は、保己一にとって、きわめて厳しいものであったらしい。
当時の保己一は、学問で身を立てたいという情熱を秘めていた。というのは、「太平記」全40巻を、わずか6ヵ月間で暗記できるほどの資質を持っていたからである。
保己一にとっては、鍼灸ではなく、こうした才能を生かした方面で身を立てたいと思っていた。
見かねた師匠の雨富検校(あめとみけんぎょう)は、保己一の学問としての資質と情熱を認め、その道へ進むことを許したのである。
彼は、水を得た魚のように、国学、和歌、儒学、漢学、律令、医学を学んでいった。そして。38歳という異例の若さで、検校(けんぎょう)に就任した。検校とは、盲人の最高位のことである。
江戸時代には、当道座(とうどうざ)という琵琶法師の組合があった。この当道座には、下から、座頭、衆分、勾当、検校、など70余の官位があり、師弟制度によって運営されていた。座員は、三弦、筝などの音曲や鍼灸、あんま、金融業に携わった。
最高位である検校は、定員10名であり、その主席を惣検校といった。保己一は、76歳の時に、その最高主席に任命されたが、ほどなくして、その生涯を閉じた。
1937年(昭和12年)、ヘレンケラーが来日し、渋谷の温故学会会館を訪れ、こう述べている。
「私は、母から塙 保己一 先生をお手本にしなさいと言われて育ちました。今日、塙先生の銅像や『群書類従』の版木に手を触れることが出来て、大変にうれしい。
先生のお名前は、流れる水のように、永遠に伝わるでしょう」と感想を述べている。
(『今に生きる塙 保己一 』堺正一著・埼玉新聞社刊より)