〔日本復活論〕23号
2021年6月4日
「貨幣」とは何か
現代社会においては、貨幣がないと生活は難しい。
自給自足も可能だが、特殊な例だ。
動物社会では貨幣は必要ないが、人間社会では、分業社会が形成されているために、貨幣が必要となる。
では、そもそも「貨幣」とは、何だろうか。
一般的な概念として、3つの機能が挙げられる。
つまり、価値尺度、交換手段、貯蔵手段の3つである。
すなわち、「財」や「サービス」をお互いに交換する時に「交換価値」を有し、「価値尺度」となり、「貯蓄価値」を有するものを「貨幣」と呼ぶ。
要するに、国家社会において生きていくために、「万能的価値」を有するものが「貨幣」と呼ばれる。
「万能的価値」を有するためには、国家権力に裏打ちされた「法定貨幣」でなければならない。(現在のところビットコインは法定貨幣ではない)。
すなわち、あらゆる食料品や生活必需品、各種サービス、電気代、ガス代、水道代、健康保険料、地方税、国税が可能となるものが「貨幣」である。
また、お年玉、ご祝儀、香典、お賽銭にも可能となるものだ。
実際上は、「お金」のことであり、「現金貨幣」と「信用貨幣」に分かれる。
普通の日常生活においては「現金貨幣」となり、銀行が介在すると「信用貨幣」となる。
「信用貨幣」は、また個人の「普通預金」と、事業者の「当座預金」に別れる。
そして、事業者の「当座預金」の場合は、「現物貨幣」の側面よりも、単なる「数字上」の「データー操作」の側面が強くなる。
例えば、銀行から「融資」を受ける場合が、その典型となる。そこでは「現金の授受」ではなく、単なる「数字上」の「データー操作」となる。
また、社員に対する「給料」の振込みの場合や、各企業間の「取引決済」も、「数字上」の「データー操作」が多くなっている。そこにあるのは、お互いの「信用」のみである。
思えば、これも「対称性の原理」の一側面と言える。すなわち、目に見える形ある「現金貨幣」があれば、目に見えない形なき「信用貨幣」の存在である。
宇宙の根本原理が「対称性の原理」であるように、経済構造も「対称性」が支配している。
すなわち「需要と供給」、「生産と消費」、「交換と非交換(貯蓄)」、「現物と非現物(信用)」、「実体経済と非実体経済(金融経済)」というふうに「相反する2要素」の「対称性」となっているのだ。
MMT(現代貨幣理論)の「租税貨幣論」
MMT(現代貨幣理論)の貨幣観は、「租税」を原点とした考え方である。これを「租税貨幣論」と言う。
すなわち、国家が「納税可能」な「貨幣」と認めたことが、貨幣だと言うのだ。だから、貨幣は、国家に対する所有者の「債権」となる。
それに対し、租税は、国家に対する国民の「債務」である。だから、お互いに「相殺」できる。
すなわち、国民の納税「債務」が、「貨幣」を納付することによって「消滅」できる訳だ。
つまり、貨幣が貨幣である根拠は、国家権力側が、国民が所有する「貨幣」によって「納税可能」である、ということを「保証」したことにあると言うのだ。
ところが昔は違った。つまり、貨幣が貨幣である保証の具体化は、昔は「金」に交換できることであった(これを「兌換貨幣=金本位制」という)。
しかし、今では、「金本位制」は「廃止」されている。だから、それに変わるものとして、MMT(現代貨幣理論)は、「租税可能性」をもってきたと思う。
「MMT」(現代貨幣理論)は、貨幣が貨幣である根拠を、この国民の「納税義務」に置く。
昔は、「金」と交換できる「金本位制」を採っていた。しかし、1929年からの世界恐慌をきっかけに、イギリスが1931年に金本位制を離脱した。
各国もこれに追随し、現代の「管理通貨制度」となった。
だが、「管理通貨制度」においては、貨幣が貨幣である「根拠」が明確ではなかった。
「MMT」(現代貨幣理論)は、この貨幣が貨幣である根拠は「租税にある」と明確に定義した訳だ。
国が、「租税」として、貨幣の使用を認めていることが、貨幣が貨幣として「通用する根拠」であるとしたのだ。これを「MMT」の「租税貨幣論」と呼ぶ。
貨幣とは、国家に保障された「万能権利」である!(私見)
確かに貨幣の根拠を「租税」に求める考えは、理解できるが、それが「全面的説明」になっているかどうかは、疑問を感じる。
というのは、「貨幣が貨幣である」と国民が認めている根拠は、国が法律でもって「強制通用力」を認めているからだ。
つまり、あらゆる経済行為において、支払い手段として通用し、弁済手段としての法的有効性を認めているからである。
だから、もし相手側が受け取りを拒否しても、債務不履行とはならない。
従って、貨幣とは、主権国家が特別にもっている「通貨発行権」と「法律」によって裏打ちされた「万能的価値」であると解釈したい。
次回へ。