小説「天界と地界」(10)
2018年6月13日
天宮仁のふるさとである三重県にも、同じ字で「神島」がある。同じ神島でも、呼び名がちがう。
三重県の神島は、伊勢湾に浮かんだ周囲四キロの小島である。三島由紀夫の小説「潮騒」の舞台となった島だ。
小説では、「歌島」と書かれている。天宮仁は、伊勢湾に浮かぶこの神島で生まれた。
子供の頃、ふるさと神島の海で、よく遊んだ。
島には八代神社がある。214段の石段を登っていくと、神明造りの社殿がある。八大龍王を祭神とし、古墳時代から室町時代にわたる百余点の神宝が秘蔵されている。国の重要有形文化財に登録されている。
元旦の夜明けに、この八代神社から、グミの枝を束ねて編んだ2メートルほどの大輪を、海まで運び、島の男たちが竹で刺して、持ち上げて落とし、その年の大漁と安全を祈願する。ゲーター祭という。三重県の無形民俗文化財に指定されている。天宮仁も中学になった時から参加している。
天宮仁は、今、田辺湾に浮かぶ神島を横目で見ながら、自分の子供の頃を思い出していた。
あの頃は、伊勢の海を本当に楽しんでいた。海にもぐり、魚を獲ったり、伊勢エビを手づかみで捕獲した。時に、その浜辺で獲った魚を食べた。本当に自然を体いっぱいに満喫していた。何の悩みもなかった。ところが、今の天宮仁は、大きな煩悶を抱えていた。
その煩悶を解決するために、この熊野古道を歩いているのだ。自分のミスで部下が死んだ。自分がもう少し、用心をしておれば、もう少し慎重を期しておれば、防げたかもしれないのだ。
あの時、最悪事態を想定し、「いのち綱」を使っておれば、最悪事態を回避できていたはずなのだ。
「大丈夫だ」という安易な判断が、ああいう事態を招いたのだ。悔やんでも悔やみきれない。
思えば、日本の昭和の太平洋戦争も同じ構図だった。
神の国、大日本帝国が負けるはずがない、日本は不敗なのだ、日本が世界の盟主になるのだ、という軍部指導者の「思い上がった心」が、あれだけの悲惨な結果を生んだ、とも言える。
まさしく「大丈夫だ!」という「安易な心」が生んだ悲劇である。負けるかもしれないという、最悪事態を全く考慮せずに、ただやみくもに、突き進んでいった代償は、あまりにも大きかった。日本兵士と民間人を含め300万人以上が犠牲となった。
広島と長崎では、アメリカ軍による世界初の原子爆弾が投下され、29万人以上の市民が亡くなった。さらに日本全国の都市の多くが空襲によって焦土と化した。わずか73年前のことである。
継桜王子を囲む、樹齢800年を越すという一方杉を過ぎると、傾斜のきつい峠が続く。
この巨樹は、九本あり、どれも南東方向に枝を伸ばしているので、一方杉と呼ばれたらしい。
この一方杉が現存するのは、南方熊楠の尽力の賜物らしい。
明治三十九年、国の「神社合祀令」の発布によって、継桜王子社も新設の近野神社へ、統合滅却されることとなった。
森は、外回りから斧が入れられ、杉やヒノキの伐採が始まった。
そこで南方熊楠は、自然保護の大切さを説いて、継桜王子の「鎮守の森」の保護運動を開始し、かろうじて9本を残したところで、伐採の取り止めが決まったのである。
この一方杉の下方には、水が湧き出ている。「名水100選」にも入っている「野中の清水」である。
雨が降っても濁らず、日照りが続いても涸れることがなく、長い年月にわたって、旅人の渇きを癒している。
ここに斉藤茂吉の歌碑が建っている。斉藤茂吉は昭和九年に、ここを訪れた。
『いにしへの すめらみかども 中辺路を越えた まひたりのこる真清水』
小広峠から少し下って、熊瀬谷の土橋をわたり、草鞋峠を越え、岩上峠までは、中辺路でも難所の一つとされている。
樹木が、鬱蒼と茂って、昼間でも暗い。しかも、傾斜がきついのだ。江戸時代の書には、ここは「蛭降峠」と書かれている。
頭上から旅人の血を求めて、蛭がふってきたというのだ。だが、いまでは、杉とヒノキの植林のせいか、そういうことはない。
十月の熊野古道の風は、少し肌寒いが、すがすがしい。
心地良さが肌に伝わってくる。
森の木々が、風で揺れている。天宮の頭には、事故当時の葬儀のシーンが、また甦ってきた。
恋人の顔が、悲しみでくずれていった。そばで彼の両親が、悲しみを押し殺していた。恋人とご両親のなんとも言えない顔が、天宮の生きる気力を萎えさせていた。
次回の「天界と地界」(11)へ続く。