●拡大瞑想で宇宙から飛び出した瞑想体験した人の話④ | クリシュナ宇宙学校

クリシュナ宇宙学校

クリシュナ☆が行う『宇宙学校』は
最高レベルの「多次元宇宙の真理」が学べる学校で、
神様と仲良くなり、神の視点から現象を捉えられるようになる学校です。

精神レベルをあげたい人、成長したい人、論理的に
宇宙法則を理解したい人はお気軽にお問い合わせください

「自我意識(我執)」に関しては、 
「ヨガの宇宙観」の「魂の構造と仕組み」で、体系的な知識が得られるでしょう。 

https://ameblo.jp/uchugakko/entry-10832009513.html 

◆「我執」については、書こうとしていたときに「東日本大震災」と「福島原発事故」が起こったために、そちらの鎮静化の瞑想のために中断したままでしたね。  
「魂の科学」スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著。たま出版。で、詳しく説明されています。 
https://item.rakuten.co.jp/bookoffonline/0015929740/ 
(アマゾンのほうが安く買えるかも) 
  

では、たこすけさんの瞑想体験の続きです。 
(※なお、たこすけさんは、コンピュータ・プログラマーとかシステムエンジニア関係のお仕事をなさっていることが(643)から推察されます) 
    ↓ 
∞⇔∞⇔∞⇔∞∞⇔∞⇔∞⇔∞⇔∞⇔∞⇔∞⇔∞ 

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/12320/1398856837/ 

俺の感じた限りでは、「12の構造」が折りたたまれて、 
1つの宇宙になっているように思いました。 
12の宇宙とも言えるかも知れませんが、12であっても、それは1でした。 
この無限の構造が、どこまでも続くイメージです。 

俺が一連の体験を客観視できている理由は、 
ここで対話していた「自分」は、自然と沸き上がる思考であって、 
まるでテレビ画面を見ているように、両者を眺めることが出来たことにあります。 

(※この客観的に観察している自分が「真我の意識(純粋鑑賞意識)」なんですけどね。知識と理解がないのが惜しいですね。 
「150」さんが、専門用語を使わないで解説してくださっていますね。 
但し、「150」さんの(覚醒状態では思考力が落ちる)は正確ではなく、「覚醒(超越瞑想時)」している時は思考はピュアになります。 
浄化が不十分であったり、3種のグナ(原初光エネルギー粒子)の影響を受けると認識や判断が不正確になります) 


「12の構造」のイメージを「なんとなく」伝えると、このようになります。 

◆「エネルギー」は、物質を含む力です。 
しかし、その波長はとても長いため、俺たちは物質を波とは見ることが出来ない、そんな感じです。 

「心」は、「人が持つ『世界の歯車を回す力』」というイメージです。 

「法則」は、「世界の内側」において働く力です。 
その一部は「世界の外側」で生じた結果を埋め合わせるために働く場合もあるように感じています。 

「構造」は、「有る」という事実です。俺は「12の構造」に出会い、「構造」を入り口としました。 
12の構造は、ある特定の空間にのみ定義されるものではなく、 
宇宙、生物、無機物すら、12の構造であると俺は感じました。 
この構造は、力場のようなもので、形があるわけではありません。 
それらは螺旋のように、すべてと結びついています。 

宇宙の外側にいながら、宇宙の内側にあるものを見ることが出来た、という感覚です。 
それらは「情報」によって構成されていました。 
どちらかと言うと、空間も時間も、そして物質(として俺たちが見ているもの)も、すべては同時に同一に存在しているということ。 

「大きな世界」「普通の世界」「小さな世界」には、境界はありませんが、 
それを「見ることが出来るかどうか」という意味では、境界があります。 
すべては、グラデーションのように結びついていると、俺は感じています。 
ただ、そのどこかで「特定のエネルギー特徴が顕著になるポイント」はあると思います。
それが、12の構造だと思います。 

極小の世界はあると思いますが、そこでは「普通の世界」の物理法則とは性質が異なっています。 
なぜなら、そこはエネルギーの世界だからです。 
すべては波であり、エネルギーの特徴的なポイントによって、 
それが「物質の世界」へと出現して「物質」として定着する。 
俺の感じたイメージはこんな感じです。 

では、「波」の特徴的なポイント以外はどこに行ったのか。 
それは、エネルギーの世界に残されていますが、 
それは「境界」によって隔てられ、観測することが出来ないのではないか、こう思っています。 

(※この「波」をより次元を上げて詳細に観察するなら、極微の立方体の光エネルギー粒子の流れが観察されるでしょう。それが「3種の原初光エネルギー粒子(3グナ)」と古来からヨガで呼ばれている宇宙の最小構成要素です。) 

◆エネルギーに近い「素粒子」を例にすると、素粒子は情報を持つことが出来ます。 
これは、まるで素粒子が情報を記憶したように見えますが、 
俺の感じた限り、これには別の要素が絡んで「そう見えている」だけのように見えます。

一方で確かに素粒子は情報を記憶することが出来ます。 
しかし、この観点からも「素粒子が情報を記憶した」のであって、 
エネルギー世界が情報である、という解釈にはならないのではないか。 
これが、俺の解です。 

(※だんだんと、「悟り」の核心的な内容に踏み込んでらっしゃるようですね。 
記憶情報を保存する光粒子に①「宇宙心素(広義の「アカシックレコード」)」と呼ばれるものがあり、②記憶情報を有機的に組み合わせた情報を保有して現象を生起させる「行(ぎょう)」と呼ばれる「未発現現象生起エネルギー」というものが存在しています) 


◆人間は「心」と「法則」というポイントの中間にあり、 
そこにも力場のようなものが満ちているイメージです。 

俺は体験をする上で、客観視はしていますが、 
まるで幽体離脱のように離れては見ていませんでした。 

つまり、自分というロボットがいて、 
その頭脳の中からディスプレイを通じて体験を見ていた。 
このような表現が出来るように思っています。 
そして、俺はエゴを客観視していたのかも知れません。 
この解釈から言えば、俺はエゴのない状態で、物事を見ていたとも言えるように思います。 

(292)悟りとは何かを考えていました。 
悟ることとは優れたことではなく、むしろ悲しみを生むこととなります。 

(※この感想は「悟り」の内容によっても異なるでしょうね。 
 例えば、「理不尽な現象」に出会って苦しみ、その原因がわからないので苦しみ続けていた時、その「原因」ないし「法則性」が理解できて、「ああ、そういうことだったのか!(例えば、直前世に交通事故で相手を大怪我をさせたカルマの浄化で起こった出来事だった)」と瞑想体験して知り納得できると、苦しみが軽減出来たり理不尽さに対する精神的苦しみから解放されるなど。

あるいは、常に全知全能の神に守護されている真理の実感を得て無上の安心感が得られる、など。 
「むしろ悲しみを生む」という感じ方は、エゴの色眼鏡がかかっているのか、あるいは、すべてがわかってしまえば人生がつまらなくなる、と感じているのでしょうか?)
 

◆俺がたどり着いた先において、 
エゴとは、有りながらにして無いものでした。 
それは境界であり、融和の可能性であり、 
故に苦しみを生むように見えてしまいます。 

◆エゴのない自分は、どこまでも純粋でしたが、 
「何かを便利にしよう」とは思わないものでした。 
ありのまま、有る限りに有り続ける。 

◆「すべて」とは、深く納得している意味です。 
納得とは、平坦な海があるということへの理解です。 
平坦な海とは、「すべて」です。 
有る限り、有り続けるもの。 
平坦な海であり、納得であり、すべてです。 

俺が「宇宙の外側」の、その先で見た場所は、 
あたかも、自分が何者かの精神活動の一部であるかのような、 
安らぎに満ちた場所でした。 

そこでは、俺は既に「もっと広がりたい」と思うことは適わず、 
例えるとしたら「完全なる距離」とでも呼べば良いのか、 
抽象化することが困難な広がりがありました。 

この先に向かうことは出来ない、ここが終着点なのだろう。 
そこで感じたことは 
「自分とは、巨大な生命に身を宿す、一つの細胞のようなもの」 
と言う感覚でした。 

それは深い納得を伴っていました。 

ここが、すべての生命が還るべき場所なのだろう。 
ここが、すべての根源であり、すべての始まりでもあるのだろう。 
その時は、そう思いました。 

しかし、それは「恐怖と畏怖」の間に生まれた、 
一時的な感情でしかありませんでした。 

俺は「一なる者の精神活動」の海から突如として解き放たれ、 
無数のエネルギーとしか表現できないもの、 
それが流れる、光の川のような場所へと流れて行きます。 
あまりにも速く、あまりにも静かに、それは押し流されるという表現よりも、 
自分がエネルギーとしか表現できない、「成りて成るもの」と同一になったような感覚でした。 

やがて、自分がいた「精神活動の海」は、沢山の光が集合した、 
いわば銀河のようなものであることが見えるほどになりました。 

それは無数の「線」によって形作られ、その1つ1つの「線」が、 
俺たちが「魂」や「命」と呼ぶものであるという確信がありました。 

命とは終わるものではなく、連なるものであって、 
良く言えば「命とは有る限り不滅」であり、 
悪く言えば「命とは有る限り牢獄」なのだと感じるに至りました。 

エネルギーのようなものとなった俺は、 
無数のたちと混じり合いながら、まるでトンネルを通り抜けていくように、 
無限に続く「有」を見つめていました。 

「有」の始まりは「無」である、という解釈は誤りだったことを知りました。 
有りて有り、有り続ける限り、世界は「有」なのです。 

では「有」の始まりとは何か、それを探すように光たちは、 
無限の「有」へと進んでいきます。 
どこまでも「有る」ことは続き、それは果てしないものでした。 

しかし、そのどこを探しても「一なる者」も、「母なる体」も、「すべての始点」も、 
見つけることが出来ませんでした。 

ただ、世界とは完全なる有であり、 
光たちは再び1つの束となって、巨大な流れへと溶け込んでいきます。 

やがて、光の束は無数の流れへと散り散りになり、 
そのエネルギーはとなり、それは波の顕在化としてのようになり、 
目を開くと、そこはいつもの公園でした。 
俺はベンチに座り、その隣にはお婆さんが座っていました。 

「なぜ我々は有るのか」 

例えるなら 
「絶対的な完全性を持った有(仮に『完全な有』)」とも言うべきものがあり、 
「絶対的な完全性を持った有」との間で、 
エネルギーのようなものが交換され、それが「曖昧な有」を作り出している。 

自分たちは、その「完全な有」の影を見ているに過ぎず、 
しかし、それが故に「完全な有」の影である限り、すべては「有」であり、 
我々も「有」である。 

では「完全な有があるのなら、なぜ人は完全な有ではないのか」と問いかけても、 
「人間の不完全性」と「完全な有」とは、 
語るべき部屋が違うものです。 

あるいは、「魂とは完全な有なのか」と問いかけても、 
それも語るべき部屋が違います。 

「有る」ことだけが事実であり、俺たちが進む先には「一なる者」はありません。 
「成りて成る」すなわち「有」だけがあるのです。 

ここまで書けば、俺が何を否定してしまうのか、分かっていただけると思います。 
これより先へ進めば、多様性の海(一種の魔境のようなもの)があります。 

「恐怖ではなく、愛情によって冷たい海を乗り切ろう」 
などという言葉を繰り出してくるかも知れませんが、 
その言葉の先にも、多様性の海があります。 

すなわち、俺が何を言いたいのかと言えば、 
「無」は、基本原則としての「有」を説明するために産み出された、 
人間の向かいたい道であり、 
それは、向かうべき道ではない、ということです。 

この先に進むためには、どうすれば良いのか。 
「無を受け入れ、無へと近づこう」 
多様性の海は、こうささやきます。 

俺が、このささやきの向こう側へ行ったとしても、 
その向こう側には「多様性の海」があり、それを「外へ出す」ことが出来ません。 
これが「多様性の海」です。 

「多様性の海」が生まれる原因は、 
みんなにそれぞれの「世界」があるからだと、俺は思っています。 

「俺のが本物なんだ!」「いやいや俺のが」「じゃあ俺も」 
それぞれが見ている世界は異なり、それは当たり前のことなんですよね。 
だけど、みんな「俺のが正しい!」と思ってしまう。 
では、その中から真実を探すべきなのか、という話しになりますが、 
それを追求するのが、技術体系だと思っています。 

「多様性の海」は、溺れるべき海ではないと考えます。 
「自分こそが正しい」という主張は、本質を多様性の海へと沈め、 
神を探していることと同義だと俺は思います。 

多様性の海は広くて狭いので、方向が分からなくなってしまう。 
「多様性の海」に答えはありません。 
そもそも、答えとは、それぞれに有るものであり、 
それぞれは主張上、異なるものになります。 
そこで取り付かれやすい「自分が正しいのだ」という思いは、 
非常に厄介なものであると同時に、とても素晴らしいものだと思います。 
それこそが、あるいは「エゴ」の正体なのかも知れません。 

つまり、俺が何を言いたいのかと言うと、 
多くの道であっても良いと思うのです。 

本質を見極めるには、複数のステージを超える視線が必要です。 
12の構造を一周した時には、それは確かにありましたが、 
今はステージを超えることが出来ません。 

抜け出す方法は、自らを解き放つしかありません。 
しかし、それには、もう一度「あの場所」へ行かなくてはいけません。 
すべてを解き放つためには、向精神薬であるジプレキサを数日間は絶たなくてはなりません。 

●本当の瞑想を俺は知らないのですが、 
仮に自分の行う「瞑想ごっこ」を真似るとしたら、決して勧めません。 

確かに、この「瞑想ごっこ」は思考を良く整理出来ます。 
けれども、俺はこの行為を始めた頃と同じタイミングで、 
脳の病気になってしまいました。 

病気になった原因が「瞑想ごっこ」なのか、 
病気だったから「瞑想ごっこ」を行ったのか。 
それは、今となっては分かりませんが、 
自己流の瞑想は危険であるのかも知れません。 

∞⇔∞⇔∞⇔∞∞⇔∞⇔∞⇔∞⇔∞⇔∞⇔∞⇔∞ 

※地球上の「聖者さん方」は、 
●「上位波動次元の世界」だけでなく、 
●「下位波動次元の世界」も瞑想で探究なさっています。 

したがって、過去からの多くの聖者さん方の中には、 
●「横の次元の世界」も瞑想体験なさっている方たちもいらっしゃるものと推察されます。 
  
わたしの情報不足かもしれませんが、わたしが信頼できると感じる聖者さんの中で、「横に拡大して宇宙を飛び出す瞑想法」を指導なさっている聖者さんや、 
「横側に広がって宇宙から飛び出した瞑想体験」を解説なさっている聖者さんに出会ったことがありません。 
  
■たこすけさんの瞑想体験と瞑想方法は、そういう意味では貴重な情報だと、わたしは感じます。 

ただ、聖者さん方が、「横側に拡大して宇宙から飛び出す瞑想法」を推奨なさっていないということにはそれなりの理由があるのかもしれません。 
◆わたしは、この瞑想法をやりたいと感じません。 
◆たこすけさん自身もこの瞑想法を「真似ることを決して勧めません」とおっしゃっています。 
ですから、危険を承知で探求したいと決意した人以外の方は、 
おやりにならないほうが良いだろうと感じます。 

ただ、 
  
自分の意識とエネルギーを広げる瞑想方法そのものに関しては、 

◆わたしも「純粋な愛」そのものとなって、安全に拡大して戻ってきた瞑想体験はこのシリーズの中でもご紹介した通りですし、 

宇宙人さんたちにも、安全に宇宙に拡大する方法を紹介なさっているケースがあります。 
たとえば、ハトホルさんたち。↓ 
https://ameblo.jp/uchugakko/entry-12459985129.html 
(※
「地球のすべてに対する感謝の思い」の大切さが説かれていますね。 
 ハトホルさんたちは、いろいろな幾何学模様を用いた瞑想法も説明なさっています) 

「マカバ瞑想」というのもあるようですね 
https://blog.goo.ne.jp/wyatt999/e/db40d4bfe800581b7a7495bbe8330643

https://www.youtube.com/watch?v=6hT3Kb6bxi0&list=PL2xJifRYs-Ky4iJxjFelgpc9TEBo6zmI- 
(※「マカバ瞑想」はやったことがありませんが、各プロセスで
「ハートには愛」が最初に書かれていますね) 

※要するに、「愛(神の愛)」の思いや「地球や宇宙のすべてに感謝」の思いが、安全に瞑想するためには大切なのかもしれませんね。 


「●拡大瞑想で宇宙から飛び出した瞑想体験した人(たこすけさん)の話」は、今回の④で終了させていただきます。 


いつもありがとうございます。 
    みんなが神の子:神の子クリシュナ