俺は詩人だバカヤローと怒鳴つて社を出でて行くことを夢想す
『北二十二条西七丁目』田村元



ひと息、一直線の歌。
一直線の歌というのはまあまあよくあるが、
この歌にはそこに乗っていくスピードがある。



この歌は、早口で読む必要があるし、
ふつうに読んでいくと、自然と早口になっているはずである。




歌意は明瞭。




サラリーマンにとって、歌人や詩人という肩書きはまったく意味をなさない。
歌人や詩人というのは、社会経済的にはほぼ価値ゼロの存在だ。
なんだ経済このやろう、である。




が、作者は自身が詩人であることに「こだわり」を持っている。
社会経済的に無価値だと分かっていながら、持つこだわり。
そしてそのこだわりは、社会経済と絶対的に相性が悪い。





社会経済という絶対王政ににバカヤローと怒る。
怒るでしかし。





怒りは本気の怒りだろう。
けれども、この一首には不思議なコミカルさが見てとれる。

バカヤロー、という表記に、救いがあり、愛嬌がある。



一時期、「世界に対する違和感」とかいうワードがよく聞かれたが、
掲出歌をはじめとする田村作品から感じられるのは
「世界に対する違和感」ではなく、「世のなかとの折り合いの悪さ」である。
世界に対する違和感とかいって、かっこうつけんなよ、である。




ヒロイックなものに憧れながら、そうしたものが併せ持ついやらしさにも敏感。
敏感ゆえ曖昧にならざるを得ない人間の、
堪えにこらえた怒りがまぼろしのなかに炸裂している。

健次郎先生
たろうくんは触ってるかい?





たろうくん
ん?





健次郎先生
いや、触ってる?





たろうくん
何に?





健次郎先生
いや、いろんなものに。




たろうくん
ん?





健次郎先生
というわけで、つかみはオッケーですね。
きょうは触ることについてです。
短歌の作り方でよく見るフレーズに「しっかりモノを見ましょう」
というのがあります。





たろうくん
あー、それ聞いたことがあるよ。
しっかりモノを見ないといい歌が作れないって
そう言って、学校の先生もぼくたちを脅しにかかってたよ。

てか、先生、授業の回数すくなすぎだよ。
1回目からずいぶん時間が経っちゃってるし。
先生はほんとうの反面教師だね。





健次郎先生
たろうくんは切っ先するどいな。

先生すでに泣きそうだよ。





たろうくん
ごめん、先生。
で、しっかりモノを見るって話だよね。





健次郎先生
う、うんそうそう、短歌の世界での金科玉条だね。
たしかにモノをよく見る、というのはとても大切です。
他の人がふだん見ていないものを自分がよく見ることで
短歌に表現するというのは大事なこと。





たろうくん
そうだよね。
モノをよく見るのは大事だよね。
ぼくもいつも目をみひらいて生活するようにしているよ。





健次郎先生
たろうくんはがんばり屋さんだなー。
ただね、見ることと同じくらい大事なことがあるんだ。
それが触ること。





たろうくん
ふーん。



健次郎先生
同じものでも、それを見たときとそれに触ったときでは
気持ちの反応する場所がちょっと違うんだよ。





たろうくん
あ、分かるかも。
たとえばきれいな川を見たときになにかを感じる気持ちの場所と
その川に手を入れたときになにか感じるところはちょっと違う気がする。





健次郎先生
そうなんだよね。
そういえば、この間いろいろな歌人の人たちと一緒に行動したんだけれども
やっぱりみんないろんなモノに触っていたね。
川に触ったり、葉っぱに触ったり。





たろうくん
へえー。
ぼくはいい歌が作れると思って、ずっと目をみひらいて
がんばってきたけど、それだけじゃ足りないんだね。





健次郎先生
これからはいろんなモノに触ってみようね。
あ、マムシとか火とか触ってあぶないモノもあるから
万が一触るときはドクターを控えさせておくようにね。

みづうみのなみの入りくる床下に魚むれてをり漁夫ねむるころ
『水村』松平修文


この歌には大きくふたつの読み方があるように思う。
読みの要は漁夫の存在。

この漁夫の存在をどう見るかで
歌の様相はがらっと変わる。


さて、漁夫はこの日大漁だったのか否か。




ひとつめ。
不漁で、空腹をしのぎながらようやく眠りについた
というふうに漁夫の一日を仮定する。


そうすると「魚むれてをり」がものすごい皮肉を帯びてくる。
漁に出ても獲れなかった魚たちが、
眠りにつくころには床下数十センチのところに群れているという図。


漂流した船の乗員が、海水という水に囲まれながら
喉の渇きに苦しんでいるというような話がある。
水はかぎりなく周囲にあふれているのに
それを飲むことができないという逆説。


そんなパラドックスを思わせる歌と読むことができる。




ふたつめ。
この日は大漁で、漁夫はたらふく魚を食べて
満足して眠りに入ったという一日の場合。


そこでは、「魚むれてをり」がまっすぐに豊かさをあらわすこととなる。
すこやかに育った魚の群れの動きは
床下のくらがりでもきらきらとした躍動感を伴っている。

漁夫はその魚を獲り、食べて、眠る。
次の日も同じように魚を獲って、食べて、眠る。

単純だけれども、豊かさや安心感のある生活。
ほどよく弛緩した、しあわせな童話のような世界である。



わたしは以前、前者の読みでこの歌を味わっていた。
つまり、パラドックスの歌として読んでいた。
この読みのほうが鋭角で、ヴィヴィッドに読み手を刺激してくる。


が、歌全体を見てみると
そこから漂ってくるものの多くは豊かさ由来のものだろう。


「みずうみのなみの」
のひらがな書きによるたゆたいや、
「魚むれてをり漁夫ねむるころ」
のゆったりした言葉の流れ。


総合的に一首を俯瞰したときに
やっぱり豊かさが歌を統一しているように思われる。
漁夫の眠っている顔はとても安らかだ。


難しいところだけれども
いまのわたしは、後者の、「豊かな生活」読みを採りたい。