みづうみのなみの入りくる床下に魚むれてをり漁夫ねむるころ
『水村』松平修文


この歌には大きくふたつの読み方があるように思う。
読みの要は漁夫の存在。

この漁夫の存在をどう見るかで
歌の様相はがらっと変わる。


さて、漁夫はこの日大漁だったのか否か。




ひとつめ。
不漁で、空腹をしのぎながらようやく眠りについた
というふうに漁夫の一日を仮定する。


そうすると「魚むれてをり」がものすごい皮肉を帯びてくる。
漁に出ても獲れなかった魚たちが、
眠りにつくころには床下数十センチのところに群れているという図。


漂流した船の乗員が、海水という水に囲まれながら
喉の渇きに苦しんでいるというような話がある。
水はかぎりなく周囲にあふれているのに
それを飲むことができないという逆説。


そんなパラドックスを思わせる歌と読むことができる。




ふたつめ。
この日は大漁で、漁夫はたらふく魚を食べて
満足して眠りに入ったという一日の場合。


そこでは、「魚むれてをり」がまっすぐに豊かさをあらわすこととなる。
すこやかに育った魚の群れの動きは
床下のくらがりでもきらきらとした躍動感を伴っている。

漁夫はその魚を獲り、食べて、眠る。
次の日も同じように魚を獲って、食べて、眠る。

単純だけれども、豊かさや安心感のある生活。
ほどよく弛緩した、しあわせな童話のような世界である。



わたしは以前、前者の読みでこの歌を味わっていた。
つまり、パラドックスの歌として読んでいた。
この読みのほうが鋭角で、ヴィヴィッドに読み手を刺激してくる。


が、歌全体を見てみると
そこから漂ってくるものの多くは豊かさ由来のものだろう。


「みずうみのなみの」
のひらがな書きによるたゆたいや、
「魚むれてをり漁夫ねむるころ」
のゆったりした言葉の流れ。


総合的に一首を俯瞰したときに
やっぱり豊かさが歌を統一しているように思われる。
漁夫の眠っている顔はとても安らかだ。


難しいところだけれども
いまのわたしは、後者の、「豊かな生活」読みを採りたい。