習慣、いや肉体と脳の構造とは、素晴らしくよくできたもので、「明日の用事は昼過ぎだ。女の子に会いにもいかず、酒を飲みにも行かず、本を読み、筋トレをし、経済的にも肉体的にも素晴らしい夜更かしをし、昼間いっぱい寝てやろう、いつもお疲れ様オレ様そんな清らかな気持ちで出かけよう」と昨夜はそれを誇らしく唱え、そして夜更かしまではうまく云ったのだがいつも通りの起床時間にパッチリと、瞼をひっくり返して、目覚めてしまった。それでも、二度寝の方が疲れが取れる、という迷信かもしれぬ言葉を信じ、また布団に潜るのだが、平日のストレスフル起床スイッチもオンな割に、休日のハイテンションスイッチもオンに入ってるらしく、まったく寝付けない。仕方がないので、飯を食うことにする。腹の皮を張らせ、目の皮緩むという言葉があるではないか。
食った。
どうやら迷信らしい。ブラインドから差し込む朝の轟光と朝飯が見事なコラボレーションを果たし、脳は朝からフルスロットル、軽自動車のエンジンの如く頼りなくも軽は軽なりに頭の回転がレッドゾーンに入り、朝から手持無沙汰で目の玉をグルんグルん言わせているのである。
仕方がないのでこのモノと服と埃に塗れた部屋の大掃除、そして模様替えをすることにした。日差しの中見えた部屋は、まるで内戦中の途上国の如し、悲惨な光景に見える。
いつも思うのだが、物理的な掃除は心の掃除にもなる。
モヤモヤイライラブルブルアホンダラアホンダラ状態になると、運動か掃除をして物理的な行動を起すと必ず心はスッキリしている。
決めた。
転換期にはやはり、こういう様式的行動が必要なのだし。この間、髪切ったし。しかも終わったら疲れて寝れるべ。
このゴミのようなものの中から更にゴミを選りすぐって捨てまくって新しいライフスタイルを作ろう。今日が新しい私の誕生日だ。バァブゥ!
こうして見ると、私の部屋は、いるようないらないような大量のものに溢れている。コンセプトはあるようでないようで、ただいつもいる場所から便利な位置にリモコンがあり、雑誌があり、文庫本があり、ダンベルがあり、タイコがあり、ギターがあり、座ることが目的なはずのソファーには、バスタオルと昨日脱いだ服と、明々後日ぐらいまで分のパジャマが乗っていて、ここまで来ると利便を求めたのか、それらのモノたちが勝手に意思を持って私の生活の邪魔をしているのかもはやわからない。唯一隔離したパソコンデスクの周りには、一週間分ぐらいの大量のビールの空き缶が散乱している。きっと私のコンセプトは「近未来―自然を破壊し、利便性を追求した人間たちが自分たちの生み出したモノによって滅亡させられる」か、「後期資本主義の爪痕」「宇宙人はホントにいる」「酒止めますか、それとも人間止めますか」等々
そんなところであったのだろう。
よっしゃ。やってやる。
とりあえずコンセプトが大事だ。
今回のテーマは、「空虚の中から生み出でる芸術」かなんかにしてあっさりキレイにしてしまおう。
でも捨てるところが問題だ。ゴミ収集車が芸術的タイムリーでうちを訪ねて来るなんてことはないのだから、そこから考えねばいけない。もしくは、家の隣が湖を破壊し埋め立てた巨大な最終処分場であったらいいのに。でもきっと臭くて堪らないのでそれはいやだ。
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あ、ごめんこれ却下。捨てるの無理。クダラナイ妄想なんかしてると一日が終わってしまう。
数か月振りに窓を開けて自然の光でお部屋を光合成させてあげると、気になる気になる、埃やなんの毛かわからぬ毛たちに、隙間にある服のタグに、文庫本のしおりに、ギターのピックに、溶けたDHCのサプリメントに等々等々。撃沈。意気消沈。
コンセプトが大事だ。よし、音楽を聴こう。そこからのイメージだ。いつだって人生にはサウンドトラックが必要なのだ。
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ヤバい。
初期のnapalm deathは恐ろしく尖っている。荒々しくも、純粋な憎悪の血流を感じるのだ。
イングリッシュパンクの源流にエクストリームなメタルスパイスをぶち込む激マニアックかつ簡素な潔さ。
今も私の心を震わせてくれる。
子供の自分、年を重ねるともっと優しい音楽やクラシックなどに芸術を見いだせると無意識に思っていた。それを私は大人と呼んでいた。
大人になれば、ネクタイをし、キレイなお嫁さんに見送られ、出勤をすればお偉い方々と能や絵画について語っていると。ついでに息子か娘が経済産業省あたりに就職してくれるとありがたい。
・・・・・・・話がそれた。
どうやらこの反攻という名のパンク初期衝動は、ずっと忘れないらしい。
いいじゃないか。
年がなんだ!brutalだ!パンクだ!アンチソサエティだ!政治も社会も糞喰らえ!よっしゃ。滅茶苦茶にしてやるぜ!
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ダメだ。音楽は止めた。
部屋が昔のグラインドコアのアナログのジャケットのコラージュみたいなグロテスクなものになってしまう。
仕方がないのでビールを持ってきた。ほろ酔いの軽い朦朧は時に素晴らしい芸術を生み出すことがある。酒の効用だ。
500の缶を飲み干す間、手持無沙汰で何をしてよいかわからないのでとりあえずインターネットで気になる事柄を調べたり買い物を始める。楽天amazonヤフオクebayゾゾタウン、と軽快にサーフィンする内に、欲しいものがことごとくsold outの表示である。イライラ。
でも、今日世界をつなぐインターネットである。どこかにそれらはあるはずだ、とyahoo america,yahoo UK,グーグル、雨風呂、ミクシィ、hisの旅ブログ、世界の夜の遊び事情、等々とまた軽快にサーフィンというよりは、情報という地獄でもがく餓鬼の如し、軽自動車エンジンをフルアクセルで吹かし、世界の奥底まで探してやるぜ!と、このエネルギー絶対何かに使えばこの人成功するんじゃないか?的な、でもわかっていても止められない、という原始時代からの諺通り、気づくとトウに500のアサヒスーパードライは飲み干し、今度は逆に、ネットするために手持無沙汰で仕方がないので次次ビールのプルタブを引き裂き、気づけば何本もの缶が床に転がり、気づくとデジャブのように便所と冷蔵庫とパソコンを何度も行き来し、結局その便所のドアで指を挟み、もがいて見上げた時計の時間が、バッチリ私の遅刻当確を知らせてくれたのである。
人生って要約すると、こんな日常がその縮図になってたりする。
だからいつかやってやる!って言いながらケツを掻きながらお菓子を頬張りテレビを見てる奴はいつになっても大成しないのである。
早起きは三文の得などという言葉はまったくフレキシブルではない、とうことは証明できた。
証明できたことをお得と考えると、やはり早起きは得か。
いい加減クダラナイブログを更新せずにはやく支度をして、絶妙巧みな言い訳を考えながら走るのが正解なのはわかるのだが。
如何せんこれが私なのです。
生まれてすみません。