吉川英治(「三国志 十」五丈原の巻) | 内田也子のブログ

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本の裏表紙より
孔明は、蜀の大軍を率いて、幾たびも北伐を断行する。魏を破り、先帝(劉備)の悲願・中国統一を果たすためだった。

痩身を削り、悲壮な覚悟で臨む孔明。
しかし遠征六度めの戦地で、ついに病に倒れる。(略)

「悠久。あくまでも悠久」
雄大な大自然、この清々しい空は何百年後までも続くであろう。

「人命何ぞ仮すことの短き。
理想何ぞ余りにも多き」
それに比べ、人間の命は、なんと短いことか。生涯になすべきことの、いかに多いことか‥‥。(略)

孔明の生涯は、無私純忠、受けた大恩に報いようと粉骨砕身した五十三年間であった。


「三国志〈十〉五丈原の巻」

著 吉川英治〈1万年堂出版〉
2016年 P461

吉川英治の、1万年堂出版の「三国志」は、前半が曹操、後半が孔明が活躍する英雄伝のようでした。

後漢帝が力を持たず消滅し、魏、呉、蜀がそれぞれに権力を握ろうとする時代。

第十巻の年譜では
西暦227年 諸葛亮、北伐開始
228年 街亭の戦いで馬謖敗北、斬罪
(ここぞという戦いに、私情を入れてしまった人選により、大敗してしまい、孔明は自分を悔いて、可愛いがっていた馬謖を斬罪にします。)

229年 孫権、呉を建国し、皇帝となる。
234年 諸葛亮、五丈原の陣中で没する。

239年 倭国(日本)の卑弥呼が魏に使いを送り、金印を受ける
248年 この頃、卑弥呼死し、台与(壱与)が継ぐ

249年 司馬懿が魏を乗っ取る
251年 司馬懿病没
252年 孫権病没
263年 劉禅が魏に降伏し、蜀滅亡

265年 司馬炎が魏の皇帝を廃止、晋を建国、皇帝となる

280年 呉、滅亡。晋が中国を統一する

本文より
歴史のあとを、大きく眺めるときは、いつの時代でも、いかなる場合にも、これを必然なる力と、人力を超えた或るものの力
いわゆる天運、または偶然とよぶようなものとの二つに大別できると思う。

魏国の国連というものや仲達個人の運勢も強かったことは、このときの一時を見ても何となくぼくし得るものがあった。

それにひきかえて、蜀の運気はとかくふるわず、孔明の神言葉も、必殺の作戦も、些細なことからいつも喰いちがって、大概の功は収め得ても、決定的な致命を魏に与え得なかったというのは、何としても、すぐに人智人力以外の何ものかの運行に依るものであるとしか考えられない。


孔明には科学的な創造力も、尽きざる作戦構想もあった。けれど唯、蜀陣営の人材の欠乏だけは、いかんともこれを補うことができなかった。

ま〜孔明に中国を統一する運が無かったと言えば、それまでなのですが。

孔明は几帳面で潔癖症なので
八門遁甲(はちもんとんこう)どこにも隙がなかった、とのことです。

孔明の門戸にはいつも清浄な砂が敷きつめてあるために、砂上に足跡をつけるのは何かはばかれるような気持ちを抱き、近づき難い人物だったようです。

それは、孔明のカリスマ性でもあり、弱点でもあったのかも知れません。


孔明の亡き後、蜀は三十年持ちこたえます。しかし、時代の流れ、司馬懿仲達の次男、司馬昭の息子の司馬炎が新国家『晋』の武帝となり、
三国は、晋一国となりました。