甚大な被害を起こした東日本大震災から10年が過ぎ去った。当時を振り返り、個人的な体験を思い出せる範囲で書き出してみることにする。
<11日>
筆者の職場は東京・新宿区、有楽町線江戸川橋近くの、いわゆる牛込地区だ。自宅は同じく有楽町線の氷川台駅近くだ。
金曜日の午後、普段通り勤務中にそれは襲ってきた。最初はよくある地震だと思っていたものの、急に揺れが強くなった。明らかにいつもと違う規模の地震だ。慌てて外へ出る。大地震の時は割れた窓ガラスが降ってきたりするので外へ出てはいけないと広く言われているが、筆者の勤務先は築50年近いと思われる木造モルタルの古いオフィスであり、むしろ留まる方が倒壊の恐れがあるため危険と考えたからだ。
近所の人達も同じように慌てて出てきている。走行中の車もさすがに止まった。近くの高層ビルが見たこともない勢いでブンブンと揺れている。揺れている時間も長い。只事じゃないと思った。
揺れが収まったので部屋に戻る。老朽化した古い建物だが潰れなかったのが何より。ネットを見るとかなり大きな地震のようだ。震源は三陸沖、大津波が襲う危険性あり、直ちに高台へ避難せよと呼びかけている。また首都圏でも電車が運転を見合わせているとか、湾岸地区で大規模な火災が発生、さらに千葉では石油コンビナートが爆発したという情報も入ってくる。
そのようなニュースを横目に、零細企業のうちは普通に仕事。終わったのは20時頃。帰路に付くが、電車が動いていない。ネットで運行状況を調べると首都圏の大半の路線が止まったままだ。とりあえず駅に降りてみたが、やはり動いておらず、再開は未定とある。
仕方がないので外へ出てバス停へ向かう。江戸川橋からは練馬車庫(西武線桜台駅近く)行きのバスがある。道路が渋滞しているようでなかなか来ない。30分くらい待ってようやく来たバスに乗る。超満員。入口のドアのステップにやっと乗り込む。運賃すら払えない状態だが、緊急事態なので運転手も何も言わない。ドアの鎖が足に当たって痛い。
出発する。案の定、猛烈な渋滞だ。目白坂を登って椿山荘の辺りからほとんど動かない。そのほんの少し先、目白台運動公園(故田中角栄元首相邸跡)まで移動するのに1時間近く掛かり、「もうほとんど動きません。歩いた方が早いと思われます」と運転手からアナウンスが入る。みんな降りる。もちろん筆者も。時刻は22時頃だったか。
ひたすら西へ向かって歩く。日本女子大を過ぎ、不忍通りと合流する。その先に副都心線雑司ヶ谷駅がある。駅は開いていたが、動いてないだろうなと思いつつも一応降りてみる。やはり動いていない。時間と体力を浪費してしまった。
次の目標は池袋。明治通りへ入り、北へ向かう。暗渠になっている弦巻川を超えて坂を登りきると池袋だ。ここまで来ても単なる中継点でしかないだろうと諦めつつ、通称ビックリガードからふと線路の方を見てみると……
西武線が動いてる――!
西武線は安全確認が取れたのでその日のうちに運転再開したのだった。この時だけは西武線が神に見えた。ビックリガード隣の西武線専用改札からホームに直接入れる。ホームに停車中の電車の座席に座った。やっと座れた。時刻は23時近かったと覚えている(話によると大江戸線も比較的早い時間に再開されたようだ。大江戸線でも少し歩くが牛込柳町~都庁前~練馬の経路で帰ることができる)。
安全のため、速度を落としての運転。遅くてもいいから、とにかく動いてくれることに感謝せねばなるまい。JR東日本などは本日は一切運転しませんとシャッターを下ろして駅から客を完全に締め出してしまう有り様で、帰宅困難者が大勢出たのは記憶に新しい。
池袋から4つ目、氷川台から最も近い桜台で降りる。氷川台駅へ向かってバス通り(現在はバスは廃止され走ってない)を歩く。同じような人が多く列をなしている。
しばらく歩き、ようやく最寄り駅の氷川台駅の自転車置き場まで辿り着いた。23時40分、もう日付が変わろうとする目前だ。自転車は地震でみな盛大にひっくり返っていたが、自転車に跨ってしまえばこっちのもの。こんな時に自転車は本当に便利だ。聞くところによると都心部の自転車店では帰宅困難者が自転車を買い求めに殺到し長い列ができていたらしい。
まずは近くで暮らす高齢の親のところへ寄る。電話は何度掛けても回線がパンクして通じないので、実際に尋ねるしか確認のしようがない。幸い両親は無事だった。夜食をいただく。昼食以来何も食べてなかったのでありがたい。礼を言い、自宅へと向かう。
自宅へと戻ってきた。室内では棚などの小物があれこれ散乱し、液晶モニタがひっくり返り床に転げ落ちている(当時使用していたのは軽量小型な17インチ)。相当大きな揺れだったことが分かる。
部屋を片付け、シャワーを浴びたいが、ガスが止まっている。メーターの復帰ボタンを押して供給が再開するのを待つ。以前、電子メーターが普及し始めたばかりの頃、地震後の復帰の方法が分からないとガス会社に電話が相次いだ、という話をよく聞いたものだ。
その後はしばらくネットに貼り付きニュースを見る。いつの間にか夜明け近い時刻になっていた。東京はあれだけ揺れて震度5強であった。東北で記録された震度6強~7とは一体どのような揺れなのだろうか、想像も付かない。
<12日>
昨夜遅くなり、土曜日だったこともあり寝坊してしまう。ネットでニュースを見ていると情報が錯綜し詳しいことははっきりしないが、徐々に災害の規模が明らかになってくる。そんな中、福島の原発が爆発したというとんでもないニュースが飛び込んでくる。「日本終わった」と真面目に思った。だが核爆発が起こったわけではなく、容器内で発生した水素が爆発したらしい(調べたところ、原発では原爆のような核爆発は起きないとのこと)。いずれにせよ放射性物質が大量に飛んでいそうで、大変なことになってしまった。
<13日>
日曜日。世間は大変な事態に陥ってる中、気分転換にサイクリングに出かけてしまった。郊外の広い農地へ出てみると、何も変わった様子はない。大地震や原発爆発が起こった様子は全く感じられない(実際は瓦葺きの屋根の家がかなり損傷していた模様)。ところが、昼食を買いにコンビニに入ったところ、食料品がほとんど売っていない。高速道路が絶たれたことで物流も麻痺してしまったのだ。
<14日>
月曜日。原発爆発で電力が足りなくなり、計画停電を行うという。しかし経済的に重要な東京23区は一部を除いて対象外。埼玉県から通う同僚は、停電中は車の明かり以外は真っ暗だと言っていた。交差点では警官が手信号で誘導する。信号が動かないことが原因で事故が発生したりもした。
自社の発電所を持つJRは首都圏ではほぼ通常通りの運行。筆者の乗る有楽町線は動いてはいるものの、普段の半数くらいの本数で他社乗り入れは打ち切っている。私鉄は計画停電にに合わせて運休。早朝の5時台に遠方からの列車が数本走り、計画停電の行われる6~22時は23区内の折り返ししか走らない状態。驚いたことに、この早朝に数本だけある遠方からの列車が超満員。そこまでして働かねばならぬのか日本人よ。
昼食を買おうにもコンビニの弁当やパンは空っぽ。仕方なくクラッカーを買い代用食とする。それすら残り少ない状態。やはり職場にも乾パンなどの非常用品は備えておくべきだと痛感した。この品薄は2週間くらい続いたように記憶している。
一方、爆発した原発では、核燃料の冷却水がなくなりむき出しになっている状態。上空から自衛隊のヘリが放水を行ったりした。想像を絶する高い放射線を放つ原子炉の真上をヘリで飛ぶとか、考えただけでも恐ろしい決死の作戦であった。
原発への放水に使われたものと同型のヘリとバケツ。空自仕様なので、実際に原発で放水を行った陸自のものとは多少異なるかも知れない。入間航空祭にて。
計画停電は3月下旬まで行われた。電力需要がピークに達する夏はどうなってしまうのだろう。猛暑日にエアコンが動かないなんて考えたくもない。しかし自動車業界を初めとして、重工業が土日に工場を稼働し平日を休みにするなどの工夫により、計画停電なしに夏場も乗り切ることができた。
-・-
思い出したことをあれこれ書き出してみたら長文になってしまった。あれから10年、都内で暮らしていると震災のことは忘れてしまいがちだが、津波の直撃を受けた東北の沿岸部は今も完全に復興していないところも多い。原発も廃炉まで後30年掛かるなどと言われており、先はまだ長い。
コロナ禍で混乱している今、再び震災級の地震が襲ったら、日本は一体どうなってしまうのだろうか。今年2月13日にも福島沖で震度6強の地震が発生しており、さらに今月5日にはニュージーランド沖でも大きな地震が起きている。東日本大震災の約2週間前にもニュージーランド沖で大きな地震が発生した。近いうちに再び巨大地震が日本を襲うかも知れない。そのことを誰もが常に頭の片隅に留めておく必要があるだろう。
黙祷...