最初にお断りしておく。
次の質問に答えていただきたい。

A 人間は修行を積んだり特別な呪文を唱えたりすると空を飛ぶことができる。
B 人間はどんな修行を積んでもどんな呪文を唱えても空を飛ぶことができない。

Aだと思われる方は、これから私の文章を読めば不快に思われるだろうから、読むのはご遠慮いただきたい。
Bの立場の方は、是非、続きを読んでいただきたい。

小乗仏教から大乗仏教への「発展」をみれば、そこにブッダの神格化の流れが見える。
ブッダは人間である。
したがって、生まれてすぐに歩いたり、しゃべったり、ましてや天上天下唯我独尊などと言ったりすることなどありえない。
後世の人の作り話に相違ない。

四門出遊というのも作り話だ。
第一に、ある程度成長したブッダがそれまでに病人や死人を見たことがないなどということはありえない。
第二に、四つの門が病・老・死にうまく対応しているなど、話ができすぎである。
法華経に至って、ブッダの神格化は極みに達する。

いや、あれは、仏世界の荘厳さの象徴であるとの主張がなされるであろう。

イチローは天才打者である。
しかしだからといって、次のように彼を称えたらどうであろうか。

「イチローがバッターボックスに立った。すると見よ。球場は6つの方向に揺れ動いた。イチローの眉間から、はるかかなたを照らす光が出た。そこに映し出されたのは、ベーブ・ルースをはじめとした球聖たちである。そして大地が割れ、過去のすべての野球選手が地から湧いて出てきた。」

こう書けば、すでに、「イチロー教」という宗教ができてしまう。

大乗仏典は、ブッダの直接の教えではない。しかしそれゆえに、価値がないというわけではない。
もともとのブッダの教えには、道元の深い哲理もなければ、親鸞の厳しい罪の内省もない。
大乗仏教には価値がないという立場も、価値があるという立場も、私はとらない。
法華経は仏教を素材とした壮大なドラマトゥルギーである。あくまでも、人間ブッダの教えではないということを念頭においた上でそれを一部では発展させた教えであり、一部では宗教に堕落させた教えの参考文献である。