日本では大乗仏教を漢訳で研究してきた長い歴史がある。学者の世界は狭い。特に仏教界は狭い。例えば仏教系の大学のHPで仏教学者の名前をみると、苗字も名前もいかにも仏教者らしい名前が並ぶ。親も仏教関係者だからだ。
全く漢訳仏典の研究をしていない仏教科は皆無であろう。また、大乗仏典の教えを建学の精神に掲げている大学も珍しくない。というより本大学は小乗仏教の教えに基づいて建学されたという大学があろうはずがない。
だから、この国では少なくとも仏教学者であれば
(もはや、現代では)漢訳仏典には価値がない
ということはできない。中村元先生がスッタニパータを大変、分かりやすく訳した(岩波文庫)ら、荘重さに欠けると批難された。中村先生は、反論した。
もともと、仏典を原語で読めばとても分かりやすいもので、荘重さはない。
また、原文ではとても簡単なものを却って難解に訳してあったり、原文ではたいしたことではないものを漢訳に基づき、複雑な議論を繰り広げてたりしているとも指摘されている。
ここでクイズである。次の言葉は誰のものか?
がーしこがーそん
口で何回も称えてみても、分かった人はまず、一人もいないであろう。
ではこれを英語で書く。
I think,therefore I am.
これならデカルトの言葉だと分かった人はかなり多くなったであろう。
漢訳で書けば 我思故我存
有名な 我思うゆえに我あり である。
歴史上、地理上、やむをえなかったとはいえ、これが漢訳仏典で仏教を研究することである。
現代においてシェイクスピアを朗読するのに、わざわざ中国語の翻訳を無理やり日本語の音にあてはめて朗読する日本人はいないと言い切れる。
シェイクスピアは英語で読むのがもっとも良いに決まっている。英語で読めない場合は、専門の英文学者が日本語に訳したものを読めばよい。
仏典を英語で読めば1000年以上の漢訳の垢を洗い流したように頭に入る。
選択本願念仏の選択というのはセンチャクまたはセンジャクとよむが、こんな分かりにくい読み方に現代的意義はない。一般大衆から仏教を遠ざけるだけだ。
英語ではSELECTEDと訳されている。これなら中学生程度の英語であり、しかもはるかにわかりやすい。
しかもサンスクリット・パーリは印欧語であるから、英語の親戚の言葉である。
だから、私はお経は英語で読むことにしている。ダンマパダの英訳より。
諸悪まく作の英訳:
The teaching is so simple.Do what is right.