海という言葉を聞く。人によって思い浮かべる海のイメージは異なる。土佐の海岸で育ったひとは広い海原を思い浮かべるかもしれない。瀬戸内海で育った人は多くの島が点在する海を、また日本海で育った人は荒海を思い浮かべるであろう。

 

現代の人は自由に旅行して様々な海を見ているから比較的、皆に共通のイメージが存在するが、これは歴史上、ごく最近成立したことだ。テレビもなく写真もない、そして生まれ育った地方しか知らない人が多くいた時代には海ということ言葉のもつ守備範囲は、人様々だったと思われる。


 

同じ日本語の海という言葉でさえこうなのであるから、外国の文化や何千年も前の文化の理解には注意が必要だ。例えば聖書に出てくるシナイ山・ネポ山というのを現地に行って実際にみてみると、どうみても、これは巨大な岩の塊にしか見えない。日本語の山という言葉とは到底異なるものだ。

 

また時代が異なると言葉の表す内容はやはり異なる。運動会という言葉を聴いてどのようなものを想像するであろうか?

 

多くの人は家族がお弁当を持って子供達の活躍を撮影している楽しい学校行事であろう。

 

戦前の運動会を回想した作家の文章に運動会ほどつらい思いではなかったとの記述があった。老母にきいてみたら、今の我々には到底想像の及ばないものであったそうだ。運動会とは戦前は軍事教練つまり人殺しの予行演習だったのだ。

 

鬼畜米兵とか叫びながら模擬銃剣で敵兵にみたてたわら人形に体当たり。一人が十人を殺せば、本土決戦は皇国の勝利だとたたきこまれ、うまく刺せない生徒は、貴様は非国民だといわれ軍事教官に鉄拳制裁だったそうだ。

 

ブッダの教えは遠くはなれたインドで約2500年前にとかれたものであるから、解釈にはこのことを注意しなければならない。ブッダその人は東部のマガダ語に近いものを話していたらしい。それがサンスクリット・パーリ等に訳され、さらに大昔の中国語に訳されて日本に伝わったものである。これが漢訳仏典である。わが国においては長く漢訳で仏教を研究してきた歴史がある。漢訳というのは1000年以上前の中国語であることに留意されたい。

 

一つ例を挙げる。マハーヤーナ(大乗)・ヒナーヤーナ(小乗)のヤーナという言葉は乗り物を意味する。

船という意味はない。ところが日本は島国であるから、どこか遠く外の世界に行くためには船に乗らなければならない。

船から落ちるのは怖いことだ。落ちれば大海の中に置き去りだ。

 

だから大きな船(大乗)の方が安心感がある。しかし、陸上を行く乗り物では大きくても小さくても転覆の心配はない。乗り物から落ちても、そこは地上だから歩いていけば済むことだ。

 

よく考えていただきたい。地図を出してブッダが遊行した足跡をたどれば、海を渡っていないことが分かるであろう