人間であるブッダはもともと特別な宗教を作り上げるつもりはなかった。ましてや全人類を救済するなどということは考えなかった。全人類を救済しようとすれば、必ず争いが生ずることを知っていたからだ。全人類にとっての正しい真理が必要になるからだ。
ブッダは言う
ある人がこれは最高の真理であると言い。また別の人がこれが最高の真理だと主張すれば世の中には最高の真理はどこにもないことになってしまう。
大昔は世の中が狭かったから、シナイ半島で一神教をとなえても、他の地域には影響がなかった。現在のようにグローバル化すれば、上のブッダが言ったことが地球規模で起きてしまっている。
ブッダが小乗仏教を説いたのもこのためだ。大乗に対して差別的な表現とされているが(*)、小さな乗り物の方が便利が良いではないか?おせっかいな人が出てきて、この乗り物にのりなさい。と強要することから宗教への堕落が始まったのだ。
世界中の人が、私はある教え・真理・宗教を信じるが、これは私個人だけのものであって。他人がどう思おうが、どう信じようが関係ないと考えれば宗教の争いは起こらない。
ところが人間には自分が不安だと他人に薦めたり・強要することによって安心する性惰がある。
周りにいないであろうか?
自分が飲んでいる健康食品をやたら人に薦めている人が
これ、凄くいいわよ。貴方もどう?
周りにいないであろうか?
自分が読んでいる本をやたら人に薦めている人が
この本、凄く面白いわよ。貴方もよんでみたら?
自分が不安だから人に勧めることによって・仲間を作ることによってその不安を取り除こうとしているのだ。
法然の時代には医学も進歩していなかったし、激動の時代であった。京都の町には日常的に死体が転がっていただろうし、虫けらのように差別されていた人もおおかったであろう。
だから一切の衆生を救うために称名念仏を考案した。だが、法然にしても、親鸞にしても、黒人やアラブ人に会ったことはなかった。一切の・・というときに頭の中のイメージにはなかったはずだ。
現在の世界情勢の中で、念仏を称えれば、ムスリムもユダヤ人も、シーク教徒も救われるのか?ときけば法然も親鸞も別の返事が返ってきたかもしれない。
(*)
英語でグレートと言えば大きなという意味と同様「偉大な・勝れた」という意味もある。ヒナーヤーナという言葉を「小さな乗り物」ではなく、「劣った乗り物と」解釈する説もあるが、ブログ全体をご覧頂ければ、そんな、ことに拘泥するつもりがないことはご理解いただけるであろう。