新テストの英語の話です。話す力書く力を重視しよう。文法中心ではダメである。というのはもう50年以上前から言われ続けています。
英語というのは単なる道具にすぎません。
したがって英語教育において議論が延々に続くのは何のためにどのような人がどのような状況で使うのかということが欠けているからだと思います。
小学生においては英語を学ぶよりも日本語力を重視すべきである。
これは私の意見ですが様々な意見があるのは当たり前です。
国語力というのは育った家庭やその人の生きてきた人生に大きく左右されます。
ですから人様々なんですね。おそらく多くの有識者や大学の先生方というのはかなりきちんとした環境で育っていると思われます。そういう方は小さい時から英語を学んでも国語力が低下することはないと思われます。
一方で私のような地方都市の商店街の中で育ったような人間には周りにとんでもなく国語力のない友人がたくさんいました。
まともに挨拶が日本語でできないような子供もいるということは知っています。その場合には日本語でちゃんとした挨拶ができない以上は英語を学ばせることは不必要だとも考えられます。
人の生き方は様々ですから道具としての言葉は使い方も様々です。ですから英語教育においても様々な意見があるのは当たり前です。
重要なポイントを申し上げます。それは必修にするかどうかです。
公教育でリスニングやスピーチを導入し点数をつけ、入試に使用するということになれば事実上逃れることができません。
言葉というのは道具ですからそもそも話す力というのを客観的に評価できるのかという疑問が残ります。
私は哲学や宗教学について英語で議論してよと言われればかなり自信があるつもりです。
一方で、パーティーやゴルフをしながらの接待のための英語は全く自信がありません。すごく格式ばった言い方でフレンドリーではないと言わます。
学生時代に東京で知り合った友人に東北出身の方がいます。決して NHK のアナウンサーが喋るような言葉ではありません。ところがこの人めちゃくちゃ喋り方に説得力があるのです。
いわゆるズーズー弁で多少どもりながら、一つ一つをかみしめるように喋るのです。いつも論破されていました。
こんな具合で真似をしてみます。
学会で発表するのに使う英語と家族で話す英語と政治家が演説する英語など様々な場面において必要とされる話す英語というのは違ってくるわけです。田中角栄のダミ声でワイワイしゃべるようなスピーチは政治家として超一流でしょうがアナウンサー試験には不合格になるでしょう。
独立戦争での演説を少ししゃべってみました。
話す力は顔の表情や抑揚、喋り方によって大きく変わってくるわけです。それを無視して点数をつけるのであれば英作文とどこが違うのでしょうか?
聞く力も同じ、話す人がいるから聞く人がいる。
どのような状況でどのような内容を話すかによって聞く力も変わってきます。
点数をつける以上は、どのような話す能力が必要なのかはっきりと文部科学省に実施前に説明していただきたいと思います。