この年齢になっての楽しみのなかには、以前、世界史であるいは日本史を学んでいた時に、名前だけとりあえず覚えた作品をじっくり読むことができることがあります。(今は、聖徳太子の法華義しょ・を読んでいる。しょの漢字は環境依存文字につき、ひらかな。)
オマール・ハイヤムの「ルバイヤート」は、世界史で受験された方なら一度は聞いたことがあるとは思いますが、高校生の時になんで酒を飲んではいけないという教えのあるイスラームに酒をたたえる詩があるのかという疑問を持っていました。
もちろん、オマール・ハイヤムだけではなく、アブー・ヌクースも酒を讃える詩を書いていますので、特殊な例ではなく、多くのアラビアで当時酒をたたえる文学があったことは事実であります。
だが実際に読んでみる人は、それほどはいないわけです。
読んでみましたところ、はあ、なるほど、そういうことかとわかりましたが、内容は宗教的な問題になりますので、ここでは差し控えさせていただきます。
もう一つ。
富永仲基の「翁の文(おきなのふみ)」とか「出定後語(しゅつじょうこうご)」というのは、大乗非仏説の内容だと習いましたが、実際読んでみると、まったく間違った説明でした。
その2冊を読めば、近代合理主義のほう芽というべきものであり、あらゆる宗教を否定しています。神道すら否定しているわけですから、決して大乗非仏説の本ではないわけです。
なだいなだ先生の岩波新書から出ている本は、翁の文の文体をまねたものだということが、翁の文を読んだらわかります。
さてここで、読書ということについて申し上げますと、世の中では難しい本とされるものにはおおむね、解説本というものがあります。
たとえば、クルアーンがわかる本とか、聖書がわかる本というのがあります。
しかし、こんな馬鹿げた本は読む必要がありません。
私の信念ですが、イスラームを理解するためには、「クルアーン(写本)の解説書」を、キリスト教を理解するためには、聖書を、ひたすら読む。
これがベストの方法だと思われます。
その場で意味が分からなくても構いません。
わからないところは自分で調べつつ、ひたすら、何度も読んでいけばいいのです。
昔からよく言われているではありませんか。
「読書百遍意自ずから通ず」