私は今でも、何も見ないで数学の問題を解きます。
もちろん、何も見ないというのは全く見ないということはありえないわけですが、例えば、ノートに答えを書いておき、それを丸写しするような授業をしたことはありません。
私が東京にいたときに教えていた最難関進学塾であるTAPで、もしそのような授業でもしようものなら、何人もの生徒が直接、
「書いてあるものを、黒板にうつすだけならば、それをコピーしてファックスで送ってください」
と言って、職員室まで押しかけて来るからです。
以下、私がTAPで教えていた時のエピソードをいくつか紹介しましょう。
実際、こんな身の毛もよだつようなことが起こったこともあります。
ある日のこと、授業が終わって、職員室に帰ってきました。
すると、中学2年生の女子生徒が20人ほど集まって、職員室で騒いでいます。
いったい何事かということで、事情を聴きました。
彼女たちは、中学部の代表責任者に、担当講師の交替を要求していたそうです。
ある国語の先生が、高名な美術家(岡山にもいくらか関係のある方です)の文章が出ている入試問題を解説していました。その文章の中の、この箇所はあまりいい説明ではないとか、表現がおかしいなどと指摘していました。
すると、授業を受けている生徒たちが、顔を見合わせたり、クスクスと笑ったり・・・どうも様子がおかしい。
そこでその先生は、
「何がおかしいのか。この文章にはおかしい表現があるからそれを指摘しているのに、先ほどからどうして君たちはざわざわしているのだ?」
と聞いたところ、ある生徒が手を挙げて、こう言いました。
「すみません、それは、私の父親の文章です」
東京の学習塾で教えることは、かくも苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)さを極めることです。
こうした環境で勝ち残ってきた私の塾講師としての感覚というのは、保護者も生徒もみんな、なんとなく知り合いといった、馴れ合いの空気の中で成り立っている岡山の学習塾や講師とは、とうてい相容れないものだということは、大いに自覚しております。
ところで、当時TAPは東京駅前(正確には東京駅から歩いて10分程度の八丁堀)にあったわけですが、校舎には、東京駅が見える教室もありました。
とんでもない発想です。
東京駅前に学習塾を作った経営者もすごいが、そこに優秀な生徒を集め、その生徒たちを教えきれる講師を集めたという教務もまた、恐ろしいものだと思います。
ちなみに、当時のTAPの通塾生にアンケートを取ったところ、平均通塾時間(片道)は、1時間を超えていました。
また、通塾生の保護者の職業を調べてみたところ、他塾に比べて最も明らかに多かった保護者の職業というのは、文部省(当時。現在の文部科学省)の官僚でした。
日本の学習塾の歴史において、最も優秀な小学生なり中学生が集まっていたということでは、TAPがおそらく最初で最後でしょう。
なお現在でも、一見同じような実績を出しているところもありますが、それは首都圏に何十か所も散らばる校舎の実績を合算したものです。
当時は、過度の塾通いとか乱塾ブームなどと言われ、子供が学習塾に通うのが何か悪でもあるかのように言われ、学習塾はずいぶん批判されていたと記憶しております。
TAPという塾が、古き良き時代の学習塾なのか、あるいは、過熱したいびつな学習塾なのかは、読者の皆様の判断にお任せします。
しかしTAPには、それほど熱意を持った生徒が集まっていたのです。
そしてそれこそが、その当時の東京のトップ学習塾の現実であり、実情だったのです。
さて、ここからはちょっと内緒の話なのですが、東京のトップ進学塾で教えるよりも、実は、岡山で教えるほうが、塗炭の苦しみを味わうことになるわけです。
岡大附属中学校(以下「附属中」)の生徒が何人かいて、その中で、ちょっと自信のなさそうな生徒がいました。少し励ましてやろうということで、その生徒が数学の問題がうまく解けたらたら、大いに褒めて、合格という判を押しました。
それは、その生徒が少し弱気で自信がないタイプだったから、皆の前でほめてあげ、そして形に残る判を押して、自信をつけさせようという、私の意図であります。
ところが、保護者面談で、他の附属中の生徒の保護者が、さりげなく言いました。
「うちの子は、(同じ問題が)合っていたのに合格のはんこが押されてなかった」
大体保護者は、自分の中1生の子の友人のノートをチェックでもしているのでしょうか?
本当に恐ろしい話です。
しかしこれなどは、氷山の一角とでもいうべき、ほんの一例に過ぎません。
このような、岡山ならではの保護者同士の嫉妬、軋轢、見栄・・・と闘いながら20年、塾を経営してきましたが、幸い、来年はこの苦労に惑わされる必要はないと思われます。