世間には、4大予備校という、よくわからない言葉があります。
そのうちのある予備校講師が、カリスマ教師としてもてはやされていることは、皆様ご存知のことでしょう。
それではここで、塾・予備校の専門家である私がこのことについて解説いたします。
まず、4大予備校と言われる大手予備校の4つのうちの3つの本体は、認可された学校法人です。広報活動には制限があります。学校法人ですから、いくつかの条件を満たせば、通年受講生の通学において学割が効くわけです。
ところが、あの予備校だけは、株式会社であります。
そのかわり、株式会社の予備校講師がテレビのバラエティー番組に出ることも、また、カリスマ講師のキャッチフレーズを印刷したティッシュペーパーや文具用品などを高校の正門前などで配ることも可能でしょうす。
次に、ここからは一般論になりますが、予備校のカリスマ講師に現代文の講師が多いということについて、私の分析を述べます。
岡山では国立志向が非常に強いので、理解されにくい点もあると思われますが、東京ではほとんどの受験生が私立文系志望です。東京の受験生が首都圏以外の大学に進学するという傾向はほとんどありません。
早慶に何十人も入るが、東大、東工大、一橋大には一人も入らない私立の女子高さえあると聞いております。
岡山に住んでいらっしゃる方には意外かと思われますが、東京の予備校において数学の講師というのは、非常にマイナーな世界なのです。
特別な難関塾を除けば、受講生の絶対数が違うからです。
さて、国語という教科の特性について考えてみましょう。
一般に現代国語という教科は、非常にあいまいな部分が多く、巧みな話術を生かすことのできる余地が大いにある科目です。
例えば、夏目漱石の「則天去私」という言葉を、授業で紹介するとしましょう。
「自分を捨てるということはどういうことか、みなさんわかりますか。みなさんはいろいろな悩みを持っていますね。それをすべて天に任せるということで、・・・・・・」
といったように、人生論や「自己啓発セミナー」のような話題にすり替えることがいくらでもできます。
ところが、数学というものは、わからないと言われてしまえばそれまでで、何を説明してもおしまいです。
どのように言うにも、話術は関係ないわけです。
例えば、直陵四面体は垂心をもつということを説明するとします。
「ざっくりいってね、直陵四面体というのは、要するに、垂心を持つんだよね、いいかな」
とか、
「すなわち!直陵四面体においては垂心を持つという真理があります!!!」
とか、
どのような話術で話したところで、わからない人にはわかりません。
わかるかわからないか。それだけであります。
現代文の場合、当然、ある作家・評論家の文章を黒板にすべて移して講義することは不可能ですから、テキストに印刷されている内容をもとに説明いたします。
つまり、生徒のほうを向いて語りかけることができるのです。
決め言葉を言ってみたり、難しい顔をしてみたり・・・
様々なパフォーマンスができるわけです。
ところが数学においてはどうでしょう。
数式や図形やグラフというものは、生徒のほうを向いて説明することができるはずがありません。
生徒のほうを向いて、言葉で、
「インテグラルエフエックスエーのビーのどうのこうのシーのディーエックスの・・・」
等と言われてみても、生徒はさっぱりわかりません。
まして図形やグラフを言葉で説明することなどできませんので、どうしても、黒板のほうを向いて話さざるを得ません。
数列を通じて人生を語ることなどできません。
二次方程式を人間の生き方に結び付けることもできません。
こういうことがわからない方が、マスコミに踊らされて、カリスマ講師と信じているのが現状でありましょう。