「厳しい塾」という言葉からは、宿題が多量に課されたり、毎回試験があって成績が張り出され、試験の点数の悪い生徒に講師がペナルティーを与える塾が想像されるかもしれない。

しかし、UBQの厳しさは、それとは全く異質のものである。

常々生徒に中1段階から言っていることを、いくつか挙げよう。

1 特別な勉強法はない。

UBQ数理フォーラム代表:長山豊のブログ


書店に行けば様々な勉強法の指南書が販売されている。
「東大生のノートは美しい」という書籍も、この系統のものである。

ところが、ここには非常に危険な甘えがある。

自分の努力不足を棚に上げ、できる人は特別な勉強法をしているのであり、自分はそれを知らないから成績が悪いままなのだ(=自分は悪くない)。

こんな甘えがあるのではないか。

数学のセンスという言葉も、これと同じである。

こんな都合の良い言葉はない。
数学のできる人は、生まれ持った特別なセンスがあると思い、自分の数学の不出来はそのセンスがないからだ(=生まれつきのものだから自分は悪くない)という、努力をしないことの言い訳である。


こんな甘えがあるのではないか。


2 「合格への最短コース」はない。

巷には「合格への最短コース」「効果的な勉強法」「最小の努力で最大の成果を」「短時間で成績アップ」などと宣伝する塾や書籍が多数見受けられる。
これは、勉強したくない(=楽をしたい)ことの裏返しであり、甘えである。

例えば、好きなコミックを読むとき、「効果的に読もう」「最短時間で読もう」などと考えて読むだろうか。

やはり、「効果的な」「効率的な」勉強という言葉に惹かれるのは、どこかに「勉強したくない(=楽をしたい)」という甘えがあるのではないか。

UBQのホームページにあるように、

大学に行くために勉強するのではない。勉強するために大学に行くのである。

ということを、生徒には中1より常に周知徹底している。

3 3年間の遅れは3ヶ月で取り戻せない。

UBQの卒業生が難関大学に圧倒的に強いのはなぜだろうか。
それは、一人一人が血のにじむような努力を日夜しているからである。
東京大学理科3類合格者がどれだけ努力しているかを知らない方が多すぎる。

過去にある塾が、12月の中3生向けチラシに、「3年間の遅れを3ヶ月でとりもどす入試直前集中ゼミ」という見出しで広告を出したことがある。塾の広告としては最高にうまい。


そのとき私は、中3生にその話をして、厳しく言った。

「3年間の遅れがわずか3ヶ月で取り戻せるということはありえない話だ。3年間こつこつ努力した人と、3年間怠けていた人との間に差がつくのは当然のことである。このことを受験直前にいきなり言われたら怒るかもしれないが、今、始めて言ったわけではない。中1の4月から繰り返し言っていることである」


要するに、受験勉強というのはスポーツや音楽の世界とは異なり、努力した者・なすべきことをなしたものが勝つのである。

4 たかが大学受験



高校球児が日本でどのくらいいるかは知らないが、恐らくプロ野球選手になれるのは、何万に一人いるかどうかであろう。ましてやイチローや松坂のような一流選手になれるのは何百万人に一人いるかいないでかあろう。このくらいになれば、単に努力だけではなくセンスとか才能が必要な世界であろう。


音楽でもそうだ。努力さえすれば誰でもモーツァルトのようになれるわけではない。


大学入試はどうであろうか?


大学受験生は60万人前後としよう。この全てが全て、良い意味でも悪い意味でも、いわゆる難関大学を目指しているわけではない。良い意味ではというのは、本当にやりたいことがあって、音楽や芸術分野に進む人もいるであろう。悪い意味ではというのは、ただなんとなく目標も無く漫然と大学進学を希望しているものも相当多数いるであろう。


一方で 難関大学の定義は人によって異なるが、入学定員は東京大学・京都大学・大阪大学の三校だけを合計してもおよそ一万人だ。旧帝大に一橋・東工大・お茶の水・筑波・神戸・東京外大等を加えて、さらに早慶上智・東京理科大(*),,中央(法)、ICU等を加え、


さらに国立大学の医歯薬を加えてみてください。これらの入学定員は(重複分をひいても)かるく10万人を超すはずだ。計算してみると、意外と難関大学進学は(スポーツや芸術の世界に比べて)たいしたことではないことがわかるはずだ。


(*)東京理科大学ほど不当に評価の低い大学はない。いかにマスコミが文系中心であるかの証左である。卒業条件の厳しさや東大・東工大への大学院進学率の高さを考えて頂きたい。


この数字を考えてもう一度、以下の文を読んでもらいたい。


要するに、受験勉強というのはスポーツや音楽の世界とは異なり、努力した者・なすべきことをなしたものが勝つのである。





たかが、受験勉強という言葉にはまだ意味がある。それは生活が掛かっていないということだ、

授業で使うプリントを紛失してしまうと厳しく注意されるであろうが、ただそれだけのことだ。


会社員が仕事で使う書類を紛失して、重要な契約ができなければ、懲戒処分されるかもしれない。警察官が捜査上の書類を紛失すると新聞ネタだ。弁護士が裁判に必要な書類を紛失すれば、訴えられる可能性もある。

ましてや医師が患者の診療に関する書類を紛失すれば・・・


親から衣食住を保証された上、お金を出して頂き「勉強させてもらっている」事を忘れないで欲しい。



これが、UBQの考える「厳しさ」である。



しかし。このように努力しないことを責任転嫁して、言い訳をしている人間は昔から世の常であった。

徒然草でも次のように戒められている(85段)


狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。驥を学ぶは驥の類ひ、舜を学ぶは舜の徒なり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし 


(UBQ風、超口語訳)おれは馬鹿だ。センスがないと言い訳して努力しない奴は、本当に馬鹿である。才能が無い人間とは「才能が無いと言い訳する人」のことである。努力する人の真似でも、実際に努力すれば、それは「努力した人」なのである。自分の心に嘘をついている暇があれば、さっさと実行しろ!