お断り:以下は、私のような落ちこぼれ学生の思い出。大変失礼な話しです。小学生でも富士山の高さは分かる。というくらいの内容でお読みください。




大谷大学大学院に入って、(社会人入学)哲学というのはこんなに大学によって異なるのか!と思った。大谷大学には別次元の哲学があった。


私にとって哲学というのは沢田允茂先生(慶大教授・大学入試評論文で、もっともご著書がとりあげられた哲学者のお一人・共通一次の第一回は沢田先生の文章が題材)のそれであり、大森荘蔵先生(東京大学教授・文章は慶大小論文にもとりあげられている)のそれであり、村上陽一郎先生(東大教授。センター試験を始め大学入試に文章が頻出)のそれであった。もう一人あげるなら渡辺慧先生である。


哲学科は数学を必修とすべきだといっても大谷大学では、誰も理解してくれなかった。(教授を除く)


(注)肩書は習った当時。後者の2先生は慶大に教えに来られていた。


どの先生も、訓古注釈や難解な言質をもてあそばなかった。


沢田先生にいたっては講義中に、これはプラトンの言葉だが・・・と説明されるから受講生が、いや、それはソクラテスの言葉じゃないですか・・・と指摘すると。


何百年も前に、誰がなんて言ったかなんて哲学には一切関係ないんだと涼やかな顔をされていた


沢田先生ほどの方だから、あえて啓蒙のために、間違えたふりをしたのかとも思っていたのだが、沢田先生ほどの方だから本当に間違えていたのかもしれない。鬼籍に入られた、今となっては確かめようがない。


その沢田先生がよく言われていたこと。


哲学を学ぶ者は「深い」という言葉を使ってはならない。


なんでも、若いころに哲学の大権威者と論議していた時に私の考えは君より深い!君の考えは浅い!」と言われたので、「何センチぐらい深いのですか?」ときいたら、会場が静まりかえったそうである。


2人の学者が学術的議論をしているときに一方が


「私の考えは君のように浅いものではなく、深く考えた結論である」


と言ってしまえば、第三者がメジャーを持って深さを図るわけにはいかないのであって、永遠に水掛け論になって判定不可能である。客観的に検証不可能であるから子供の喧嘩とかわらないという指摘であろう。


(追加記事)


さて、沢田先生との出会いは哲学批判から始まった。沢田先生のご著書および哲学に納得のできないところ(*)があったので、講義を受講して異議をとなえようとしたら日吉キャンパスに沢田先生の講義がない。調べたら矢上の工学部では授業がある。無礼極まりないことだが、授業に乗り込んで、若気の至りで、今から思えば沢田先生から見ればガキの意見であったろうが、稚拙極まりない意見を言ったら「その意見をぜひとも三田の沢田ゼミで発表してくれ」ということで、この際、自分の能力も考えずに三田のゼミにいった。


ところがその日は卒業アルバムの撮影の日であって、随分固辞したのであるが、集合写真に写されてしまった。だから沢田ゼミの門下生の中で、卒業アルバムに不審人物が載っている。これって誰という方がいたら、そういういきさつである。池田晶子さんごめんなさい。


沢田哲学をぼろくそに言ったら、じゃあ、次の三田哲学会の司会をやれという話になった。当時19歳の大馬鹿者にやれといったのである。何と偉大な先生であろうか!


どの教授を呼ぶか任せるといわれたので、心身問題を取り上げたいので、神経生理学者の・・・先生を呼びたいといって、心理学研究室に相談に行ったら、その先生はもう死んでいるとの由で、私には無理だと思ってかわってもらった。


こんなどうしようもない阿呆を野放しにするところが沢田先生の偉大なところであった。


しかし、これは慶應哲学の伝統であって、驚いたことに井筒俊彦先生も若いころあまりにも生意気で、目上の教授をぼろくそに言って干されそうになったそうである。(三田評論による)。もちろん私とは比べられないわけであって「どうしようもない阿呆ではない」。ジャク・ダリダも天才だと認めている。


松本正夫先生が才能を早くから認めて、井筒先生の後ろ盾になったそうだ。


ところが、池田弥三郎先生は「井筒俊彦は語学の天才ではない。あの努力を見ていないからだ。」と言った。語学修得にはおかゆが重要だとの凡人には分からない発言。新しい言語を学ぶ際には、ものすごい集中力で、一歩も部屋から出ずに数か月過ごしたそうである。寝食を削ってどころか、食事もしないで語学の研究をしている、それでは、死んでしまうからおかゆをすすりながらの研究であったとの事。


(*)曖昧なことを言いたくないので、具体的に言います。≪哲学において語源分析には全く価値がない。フロイトがヒステリーについて女性特有の問題ではないと提唱したら、ヒステリーというのは子宮が語源だからと、一笑にふされたという例をとって、語源分析は科学哲学には意味がない》と申しあげた。


(2015.5.26 加筆) 少し思いだした。[哲学というのは何も特別な学者や、特別な知識を持つものだけの学問ではない。日常のちょっとしたことを、普通の人が、何も考えないで通り過ぎるのではなく。これは何故なのか?ということが哲学である。]。そういう意味では知識も学もない、自分はうってつけだったのかもしれない。



もともと、哲学というのは子供でも、「どうして?」ときく事を追及することだ。