生命倫理学であまりにも観念的なことを、一方的に主張する人が多いので功利主義的な立場へと興味を移した。功利主義というのは功利的という言葉とは全く異なる。有用性を評価するのに数学的に評価関数を設定するのにも関心があった。わが国における生命倫理学の権威の一人でもあられる「かたぎ則章 (かたぎ は、きへんに堅)」先生と伊勢田哲治先生の編者を頂く「生命倫理学と功利主義」(ナカニシヤ出版)という学術書を拝読した。ナカニシヤ出版というのは一般にはなじみがないであろうが、倫理学に関する学術書を多く出している権威ある出版社である。
JOHN HARRIS や PETER SINGER のような、まともな学者の意見も援用してある。一読に値する学術書である。ところが序文を見るなり・・・これは問題だ。どうして多くの高名な生命倫理学者の共著でもあるのに加え、編集者はおかしいと、思わなかったのかというところにぶつかった。
同書には、細かい、どうでも良い哲学上の語論がなされているのであるが、そういうこまかい論争を丁寧に読めば「必ずや丁々発止たる哲学的論争の醍醐味を味わっていただけるものと信じている」と かたぎ先生は序文で述べられていらっしゃる。
倫理学者も筆が滑ったとはこのことである。片言隻語をとらえて批判する気は無い。滑っただけに本音が露見してしまった。他の執筆者はだれも問題視しなかったのか。生命倫理学者の一部は実際の医学基礎研究に介入している意味で、生命倫理学は文学部で唯一、人の生死にかかわる(PSEUDO)学問である。
はっきりと言う。現在の医学においても、まだ治療が不可能な難病に苦しんでいる患者が多くいることは事実だ。それがES細胞の研究を発展すれば、助けられる可能性があると言われている。ところが一方で、その研究は倫理的に問題があるという人がいる。
だから、やむなく、いやいや議論の必要があるというのであればまだまだ理解できない事はない。しかし、「哲学的論争の醍醐味を味わっていただける」という記述は問題ではないか?
議論のための議論を重ねているのであるのか?議論を楽しむのであれば研究室の内部にとどめて頂きたい。倫理学者に質問だ。あなたは難病に苦しむ患者のベット・サイドで「貴方の病気を治すためにはES細胞の研究が不可欠ですが、倫理学上の論争の醍醐味を味わいたいので、無理です」とおっしゃりたいのですか?
・・・・ということを大谷大学大学院で申し上げたら。だれも賛同してくれない。というかこの本の記述のどこがいけないのですか?という一般の声。大谷大学大学院教授に申し上げたら、こういう批判は学問ではないと例によって却下。

