マイケル・サンデル教授のハーバード白熱授業というのがベストセラーになっている。氏は政治哲学者であるが生命倫理学についても言及している。読んでみると噴飯ものである。
サバイバル・ロッタリーについて紹介している。これは加藤尚武(京都大学教授・鳥取環境大学学長・東京大学特任教授歴任。)に師事した助教から嫌というほどご高説を賜った。
臓器移植の倫理問題が次のように始まる。
1.あなたが機関車を運転している。ブレーキがきかなくなって暴走している。行き先に切り替えポイントがある。右側には3人の人間がくくられている。左側には1人の人間がくくられている。機関車は暴走しているのでいずれにせよどちらかをひき殺すことになる。あなたは右と左のどちらを選びますか?
《2.(これは長山が作った問題)受精卵は人間に他ならないからES細胞研究は殺人だという言う立場なら、右側にシャーレーに入った3つの受精卵と問題を置き換えたらどちらを選びますか?》
3.1で左側と答えたならばもう生命倫理学者の罠にはまります。では国民の間から臓器提供のため、くじで一人を選んで殺し、3人に臓器を分けて、その命が救われるとしたら、それは正しいことですねと突っ込むのである。
設定がもう決まっているんですね。 トロッコを脱線させて両方助けるという回答も事前にトロッコを動かす前に人が縛られてるかどうか安全を確認すべきだとは答えられません。
設定が思弁的なゲームであって現実の医療に即していません。
3人の人を殺しても100%臓器移植が成功して3人の人間が助かると保証はありません。臓器移植の適合条件を満たしてる可能性もありません。3人ひき殺された状態ならどうやって脳死判定をするのか。 臓器は相当損傷してるはずで移植不可能である。
成功しても免疫抑制剤の副反応はどうするかということについても誰も答えないわけです。
科学が進んだために生じる問題は科学をさらに進めることによって解決するしかありません。 再生医療が確立されてはトロッコ問題は過去の遺物となるでしょう。
倫理学者が研究室でどのような理論を展開しようが自由である。しかし、一部の倫理学者は政府の諮問委員として現実の医療や基礎研究に異議を挟み介入しているという事実がある。
これは長山が大谷大学大学院で生命倫理学を放擲した理由であるが、私のサバイバル・ロッタリーへの解答は学問ではないと随分、批判された。
功利主義は人の命にはあてはめられないのです。
大地震が来た。4人の子供を持つ母親が2人の子供を亡くした。一方で2人の子供を持つ母親が1人の子供を亡くした.
前者の母親は残りが2人だから、後者の母親より2倍、「不幸中の幸い」といえるだろうか?それとも一人の子供と2人の子供と、亡くした数で決めるのでしょうか。
(私の加藤尚武先生への解答)この問題は答えがありません。なぜなら質問自体が間違っているからです。「命」は数えられません。ましてや、「命」には足し算も引き算も出来ません。
人は倫理のために生きて死ぬのではありません。
生きる手段・死ぬ手段が倫理なのです。ましてや、哲学や・倫理学者のために生きるわけではありません。
人が、いよいよ、死ぬか?という際の往くさま・死にざまは学者が決めることではありません。
■(2015.7.21加筆)■ネットというのは本当にこわい。以上の論説について勝手に・無断で匿名で、下記のようなでたらめな批判が載っている。このブログは匿名ブログではないので、電話をしてくれればよいのに。
http://ameblo.jp/ubqubq/entry-10701501109.html
この二択しか 選べないとして、助かる命が多いから (2)が正解だって 簡単に言うのもどうかと思うけど「生命 は足し算や引き算ができない。放置 するのが正解だ」でも「こんな命を天秤にかける設問を考えるのがナンセンス だ」でも、それを正解だって 言い切るのもどうかって気がするな。
■私の文章は、(1)とも(2)もどちらか二分法で断定することが正解はない。と言っているではないか。基本的な読解力もない方のようである。
しかも私が一言も言ってないことをかっこの形で引用しています。
「放置するのが正解だと」言い切っているのでしょうか? ナンセンスとか放置などという言葉は一度も使っておりません。
答えがないという不可知論的立場を述べているのであって、正解は各人に委ねるしかないのであって、理論的に無謬の絶対的解答は求めることは不可能との意見である。放置せよとは一切言っていない。
「学問的な解答がない」ということは、統一的な、絶対基準がないので個々人に判断をゆだね。適切な判断を、人間がせよという意味である。学者の判断によって行動を決めるということが、人間性の放棄なのである。不可知論にも誤解が多い、
1.わからないと判断から逃げ出す立場ではない
2.判断力が無くてわからないという立場でもない。
3、唯一絶対な基準(たとえば、全ては教祖様の決めたことである)という立場を否定するものである。
仏教では「阿字観」や「マールーンヤ経」。ギリシャ哲学でも「アポケー」という智慧がある。いずれもキリスト教の前の時代である。キリスト教以前と申し上げた理由は神が絶対ならばその行いも絶対であるはずです。宇宙は全知全能の神が創造したのだから全ての人間の疑問には神が決めた絶対的な答えがあるとなります。神はサイコロを振るか?という問題です。、
このような、問題にすべての人間が「正しい」と考える唯一絶対の真理を求めると必ず争いが生じる。
そこでインド哲学・東洋思想では「方便;梵語 upāya」という思想が生まれた。
「方便」というのは「次善の策」という意味ではない。
今、世界中で「ちょっとした、宇宙の不変の真理(神の命令)の違い」を巡って。殺しあっているではないか!
「(■昔、大学の講義前に、政治的に偏った集団が来て、演説する。「戦争が起きたら、君はどうする?」と聞く。「戦う」と答えれば「勝てると思うのか?」。「逃げる」と答えれば「どこへ?」。「戦争が起きないようにすべき」という回答は許されない。「戦争が起きたのが前提の質問だからである」。
で、何を答えても結論は・・・・「我々(・・・党)とともに活動しよう」。宗教の勧誘と同じ。■)
2019年4月30日更新、ブログのアクセス解析をしてみるとかなり注目されている。サバイバル・ロタリーで検索するとこのブログが結構上位に出てくるようです。
そこでさらに2点追加します。
第一です。正解がないということは考えなくてもいいということではありません。誰しもが納得する絶対的な正解があるということを前提条件として思い込んで考えるということに関して問題提起をしているわけです。こういう問題がお好きな方のために思考実験をしてみましょう。はいこれが正解ですというのがあったならば,
その正解は誰が判断するのでしょうか?最高裁判所とか国連で決議をして決めるのでしょうか?もちろん人間が納得して決めるわけです。
思考実験の結果を申し上げます。全人類が納得して共通の正解があった方が恐ろしいいじゃないですか。特に宗教が絡んでいますから全員が納得するためにはすべての人類を同じ思想で統一しなければなりません。
こういう問題がお好きな方について申し上げます。
火は火を燃やさない。脳は脳を理解できない。
必ずしも絶対的な正解がないという可能性を考えて徹底的に考えろと言ってるんです。放置しろとか申し上げておりません。
全員が納得する絶対的な回答をあることを条件として徹底的に考えることは危険なのです。まず精神衛生上非常に良くありません。次に限定された条件で解決できない問題を徹底的に解決するととんでもない結論に達する恐れがあります。オウム真理教のテロから第二次世界大戦におけるインパール作戦まで歴史が証明しています。最終的には竹槍で爆撃機を撃ち落とすと皆考えてたわけです。
オウム真理教になぜ高学歴の人間が騙されるのか?むしろ逆だと思います。受験勉強ばかりしている偏差値エリートはどうしても正解を出そうとするのです。
答えがないからと言って白紙で出したら試験には通りません。だから私も大谷大学大学院を中退しました。修士論文だけが単位が取れませんでした。答えがありません何ていう論文査読してもらえませんからね。
そうすると人間は何のために生きるのかとか偏差値エリートが考えた場合に認知的な負担が最も少ないのは、教祖様に頼ることです。後は盲目的に教祖様の言うことを信じて絶対的に従えばこれほど楽なことありませんからね。
ユダヤ人のことわざに会議を開いて全会一致であれば、もう一度会議を開いて考え直そうと言う設定があるそうです。アドルフ・ヒトラーは全権委任をドイツ国民の正当な選挙により国民から受けました。
2番目のことを指摘します。哲学をなんかファッションのように思ってらっしゃる方が多いみたいですね。哲学カフェというのはありますけれども物理学カフェというのはありませんね。ちょっと喫茶店で哲学の本でも読んでるとかっこよく見えるかもしれませんね。哲学というのは使い手のいい言葉です。 基礎学力が必要ありませんからね。これが免疫学カフェとか数学カフェと言うのであれば最低限の数学の知識が必要になります。
功利主義を持ち出すのならば関数として評価しなければなりませんから数学の基礎知識が必須になります。
思考ゲームの大好きな問題だと言うんであれば個人の楽しみでやってください。税金で大学の先生がやって欲しくありません。
実際に大学院で哲学を専攻した人間から見るとそんなもんじゃありませんよ。せめてジョン・ハリスの原論文ぐらい読んで欲しいですね。
個人の楽しみやファッションでやるなら自由です。
https://ameblo.jp/ubqubq/entry-10738368804.html?frm=theme
しかし生命倫理学というのは実際に人の命や難病に苦しんでる方の治療に結びつくものです。
遺伝子治療や ES 細胞の応用研究に関して大学では倫理委員会に諮問しなければなりません。
また税金でやることでしょうか?
iPS 細胞でノーベル賞を受賞された山中先生は予算獲得のためにマラソンに出たりしています。大学の哲学科というのは税金で補助されているんですよ。そのお金があれば病院や医学の基礎研究にその予算を向けるべきだと考えます。トレードオフの関係が成り立ちますからね。
以下いくつか補足します。
神はサイコロを振るかという問題は面白いかもしれませんがこれは全知全能の神がいるということを前提にしていますから、いや神はいないと答えることはできないわけです。でも旧約聖書には神が後悔したと書かれています。個人的な思い出で失礼いたします。これを切り抜ける論法は神は基本原理を作って後は確率に任せるということです。昔灘中学の生徒の教え子が物理学を勉強しててそういうことを言われました。恐ろしいなぁ。これって中学生1年生の発言ですよ。ホーキング博士が同じことを述べられております。
大森荘蔵先生は納得ということであれば絶対に議論に勝つ方法があると言われました。直接お聞きいたしました。相手がどんな主張しようが、それは間違ってるだってバカボンのパパが言った。と言い続ければどんな議論でも勝てると言われました。
Gedankenexperiment いわゆる思考実験についても私が村上陽一郎先生から習ったのと大谷大学で習ったのが異なります。
思考実験というのは遊びじゃなくて実験を実際することなく頭の中で実験をして科学的な事実を導くことだと言われました。
決して極端な例を考えて面白おかしく頭脳ゲームをすることではないとおっしゃられました。
二つ例を挙げます。どっちも物理学的な思考実験です。
有名なガリレオガリレイの実験です。
それまでは重いものは速く落下する。軽いものはゆっくりと落下すると考えられていました。
ガリレオガリレイは実際に実験してみましたが思考実験では頭の中で考えるだけでどちらが正しいかわかるわけです。
もし10 kg の重りと1 kg の重りを比べた場合に前者が早く落ちるとします。そうすると10 kg の重りと1 kg の重りをロープでくくって落としたらどうなるでしょうか。お互いに引っ張りやって10 kg の重りを1 kg の重りがブレーキとして邪魔しますから10 kg の重りの方よりゆっくり落ちるはずです。そこでどんどんロープを短くして結局11 kg の重りと考えていましょう。それでしたら11 kg の重りは10 kg の重りよりも早く落ちるはずで矛盾しますね。
次の例を申し上げます。坂道を作って玉を転がします。向こうにも坂道を作ってどこまで登るか調べると当然運動量保存の法則より同じ高さまで登ります。坂道をずいぶんなだらかに傾けてもやっぱり同じ高さまで登ります。ここまでは実際の実験です。ここから思考実験をしてみましょう。坂道を平にしたことを想像してみましょう。同じ高さになることはありません。したがって等速直線運動をします。
不可知論というのは英語でアゴニストといいます。語源を分析しますと最初のアはインドヨーロッパ語の否定接頭辞です。再生不良性貧血を Aplastic anemia(可塑性に否定接頭辞が付いている) というアです。グノーというのはグノーシスとかグノーブルという場合の知識とか知ってるという意味です。南無阿弥陀仏という時のあみだ仏のアと同じなのです。サンスクリットを勉強すると本当にインドヨーロッパ語だから英語にそっくりだドイツ語にそっくりだとびっくりしますね。阿弥陀仏というのは(ア)というのが否定接頭辞です。弥陀というのは元々のメーターとかメートルという場合の測るという意味ですだから中国からの漢字を使った訳では数えられない光とか命という意味で無量寿とか言うわけです。サンスクリットは語をつけません。地名ではありませんからクリットというのが言葉という意味です。
馬鹿な人間ほど難しい文章を書くと言われます。大谷大学大学院でなんか僕もよく分からないんですけれども,京都学園大学を出た院生が「フッサールにおける超越的自我。相互主観性と自己超越性の克服」とか書かれていた論文を読んだ時には頭がクラクラしました。研究領域を精神医学ににもおっしゃいました。DSM(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders )を原文で読まれたことはあるのかとお聞きしましたところ、質問の意味が理解できなかったようで DSM って何ですかと言われました。英検3級も無理な方です。まさかと思うかもしれませんけれど本当ですよ。大谷大学哲学科の大学院生でアルファベットが書けない人は本当にいるんです。
ここまで書けば哲学を気取っている人間も満足でしょう。ご反論はブログに明記してある住所にお願いします。尊敬する大森荘蔵先生に倣ってどんなに暇つぶしに議論を楽しんでいらっしゃる方でもお相手いたしますよ。でもそれはバカボンのパパが言ったことに反する。と言い続けますからご了解をあらかじめお願いいたします。