生きて、生き抜く
10数年前、私はこのブログに、ただひたすらに、言葉にならない感情を叩きつけていました。当時はまだ、自分の置かれた状況を正確に言語化することすらできていなかったのかもしれません。
ただただがむしゃらに生き、息子たちが巣立った今、ようやく本当の自分を生きてもいいと思える年齢になりました。
もしかしたら、順調に時を重ねてきた人には理解できない生き方かもしれません。他人に自分を侵食され、まるで洗脳されたかのように生きていた時期。それでも、心の奥底には常に違和感がありました。
「いい子」でいるために、面白くもないことに愛想笑いをし、相槌を打つ。それが当たり前になるうちに、感情は麻痺し、無表情になっていきました。
子どもたちに同じような状況を強いていいのか。その疑問が、私の心の灯火を消さずにいてくれたのかもしれません。
最初は私に向けられていた身体的・経済的暴力が、私が苦しむ姿を見せまいとすると、子どもたちに向けられるようになりました。そして、精神的に追い詰められていく日々。そんな地獄から逃げ出した後も、私は自分の本質を見失ったままでした。
周りから見れば、私の生き方は「奇異」なのかもしれません。
10数年前にこのブログにたどり着いた時、私は必死に訴えるだけで、本当に伝えたいことがぼやけていました。そして、再びここに戻ってきた時、過去の自分と対峙しましたが、何も変わっていませんでした。
時間の経過とともに、人に過去の話をすると引かれてしまうこともあります。好きでそんな目に遭ったわけじゃない。悪いことなんて何もしていないのに、なぜ。
街を歩けば、誰もが幸せそうで、楽しそうに見えます。以前は人の顔を見るのが怖くて下ばかり向いていたので、そんな風に感じることすらできませんでした。今は、老眼でよく見えないけれど、それぞれの「自分の軸」を持って生きている人がいることを感じます。
そんな人たちを見ると、自分が情けなく、愚かに思える時もあります。でも、時間は有限です。このブログに綴ったことに、嘘は一つもありません。そして、まだ書けていない、その後に起こったことも、すべて真実です。
私と同じような経験をしながら、まるで何事もなかったかのように社会生活を送っている人は、おそらく多くないと思います。心は切り刻まれ、常に恐怖に怯えながら、それでも平気なふりをして生きている。
見知らぬ誰かが、同じ苦しみの淵にいて、最後の砦に手をかけた時、このブログを見て、ほんの少しでも「生きていていいんだ」と思えるように。そのために、私は今、再び過去と向き合って、この場所を整えております。
あらたな私は…noteにて綴っていく予定です。
よろしくお願いします。