ゴーヤの種が発根し始めたので、昨日、育苗の為のポットに入れました。50個ほどあった種のうち半分くらいが発根していました。更にこの後も引き続き水に浸けておけばかなりの種が発根するでしょう。しかし、全部をポットに入れて育てることは出来ません。育苗ポットに入れるタイミングで、他の種と大きく差をつけて発根しているものがあれば、それを優先的に育苗します。私は種を選択しなければいけませんでした。
何かを選択しなければいけない時、少し考えてしまいます。
選択する方は、有益な理由があるから選択します。例えばこのゴーヤの種のように、種自身の大きさや形から、今後の可能性を考えます。そして、同じ条件におかれても、成長に差が出るため、ここからまた選択のふるいにかけます。
しかし、選ばれなかった種も、自分の遺伝子は残したいはずです。しかし、人間が調整して育てる場合は、その選ばれない種たちの意図は抹殺されます。
私たち人間にも同じことが言えます。
あらゆる場面において、私たちは選択されます。
スポーツでは試合に出場する人数が決まっています。
絵を描いても、ある人からすると、1円の価値も無い絵が、別の人が見れば1億円の価値を見出してくれるかもしれません。
恋愛においては、自分が好きになった人が自分を選んでくれることは、多くはありません。
また人間以外の動物達もそうです。
ペットショップで売られている動物達の未来は大きく異なります。生まれた牛がオスだったら、種牛以外は子牛の時に売られ、ステーキになったり、靴になったりします。
自分が命を選ばなければならない場面は、とても辛いものがあります。去年は発芽したメロンを無理して沢山育てた結果、大変なことになってしましました。へとへとに疲れるし、狭い庭なのにさらに歩くスペースが無くなってしまいました。また、メロンについた虫達を益虫か害虫かで、駆除することが新たな命の選択となってしまいます。苦しみがどんどん増えるばかりです。やはり、自分の限界を考えたら、ゴーヤも無理をすることは出来ません。選ばなければならないのです。
そして、仕方なく選んで15個の種をポットに入れました。でも他の種もやっぱり捨てられず、水に浸けています。なかなか割り切れません…。
ゴーヤをポットに植えるのが終わってから、家の隅に放置してあった鉢を見ました。雑草の種がどこからか飛んできて、鉢いっぱいに生えていました。
すごい生命力だな…と感心しながら、根が頑丈に張ったその雑草を抜くと、そこには去年植えていたシソの子供たちが芽を出していました。
恐らく沢山の種が落ちたであろう中から、力のある種が芽を出したのです。水をかけてもらえることもなく、他の雑草に小さな面積を占領されながら、わずかな可能性の隙間をかいくぐり、それらは芽を出していました。今まで植物の栽培をしたことのない私には、その生命力が驚きでした。
自然界では、その神秘的で完全なる法則のもとに、優良な遺伝子が生き残リます。私たち人間が手をかけることなくです。私のゴーヤ作りは「人為淘汰」です。しかし、このシソの芽は「自然淘汰」です。
自然に生き残ったものは力強く、適応能力があり、また運が良かったと言えるでしょう。そして、生き残れなかった命、芽を出すことが出来なかった種に対して、気遣いしなかった事への詫びの気持ちは起こりませんでした。ゴーヤではウジウジ考えてしまいましたが、このシソの生命力こそが本物なのだと思ったからです。全ての命を救うことなど到底無理ですし、またすべきではありません。私は、自然におこるこれらの命の選択に対し、ただただ畏敬の念で胸がいっぱいになりました。




