マロン日記番外編。 -5ページ目

マロン日記番外編。

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会議とかに参加すると
自分の稚拙さを思い知って打ちのめされます。
周りが見えていないこと
浅慮であること
を痛感するからです。
経験の差ではなく
明らかに足りないのです。

例えば
質疑応答の時間を設けるので
好きに挙手して質問してください
といった時に
なにも浮かばないのです。
日々の不満や矛盾点などはでるかもしれませんが
次につなげていくような
建設的な疑問を感じていない、
それらを意識的に捉えられていないことに気付かされるのです。

例えばですが、
「遠方の人の労働管理について
地方と都会ではこのような差がありますが
その辺りのことをどのように整合していくお考えでしょうか」
なんてことは浮かびません。
「あの土地は僻地だからここでのこういう管理は無理だよねえ。
ほんとこの制度は地方に優しくないよねえ」
で終わっているのです。
感想文で生活している気がします。

自分のこの部分に関しては
随分前から恥ずかしいと思っています。
正確にはこうでないようになりたいと思っています。

しかし
難しいのです。
意識していても一昼夜で改善するようなものではないようです。


この話を軽く年上の自分より上位職の方にすると
経験値の問題だ、と言われてしまいます。
しかしいくら経験しても
それだけでは伸びない部分、
伸ばせない部分である気がするのです。

しかし
「そう思う、感じているということは
逆に言えば全体がきちんと見えている。
そうでないところから見ようとしていて
足りていない、差があると気づけている。
それはそれで一つの能力だと私は思うよ」
と言われたことがあります。

この言葉はしょんぼりしていた自分には
特効薬のようなものでした。



子供じみた世界を構築しています。
私は稚拙なのだと痛感します。
子供を育てる立場ではなく
未だに大人になれていないのだと
そう思う瞬間がいくつもあります。
具体策は未だに見つかりません。


けれど
きっとここから見えるものも確かにあるのだと
今は信じています。
そして少しずつ
多角的な視点を養っていけたらなと思っています。


今、これを書いていても
具体的解決策はなにひとつ提示できません。
だからどうするのか、
どうしていくべきなのかを
言えずにいます。

物事の問題点(疑問点ではない)はよく見えますが
物事の本質はとても見えにくい目を持っているようです。
具体的解決策を見つけることが苦手です。
抽象的問題点を見つけることが得意です。


毎回会議でも日常でも打ちのめされますが
笑って接することは難しいことがわからなくてもできるはずです。
それが解決になるかといえば
疑問ですが
わからないなりにできることをするしかないのです。
そしてわかるように重ねて積んでいくしかないのかなと感じています。


というわけで。
嫌なことばかり続いた金曜日。
月曜日からまた笑顔になるために
週末リフレッシュです。




物事をね、
あまり難しく考えすぎない方がいい。
わかっていても、
単純化することが苦手な人だっているよねって話。
私は単純化しようとすると
極論化してしまう悪癖があるので
物事の本質というものは私の天敵です。

仕事の帰りに空を眺めて歩くのが好きです。
道端の草をみたり
近くの学校の放課後の空気を感じたり
青春のような
郷愁のような。

こんなはずではなかった
と思うことがありますか?
毎日1回は笑えていますか?
きっと捉え方ひとつで
いいものにもわるいものにもなるのだと思います。
それがわかっていても
感情が納得するのは別の話だと思っています。

人間万事塞翁が馬、という言葉が好きです。
けれど
私はいつもいつもそういう考え方ではいられず
悪い側面をよく見てしまいます。

かつて有事の際に誰かを悪者にしたがる自分がいました。
なによりも先に考えることは
「誰がやったの?」でした。
責任の所在を明らかにしようとしていた、
といえば形が少し変わる気がしますが
やった人を責めるだけでは
何一つ問題が解決しないことに気づきました。
また、自分がやったことではなくても
自分の非として受け止めなくてはならない場面があります。
自分はやっていません、といったところで連帯的な力や
連携不足を問われ
また原因の一つとして処理されたりもします。
何年か前、
私はそういう場面があると
腹を立てていました。
自分ではないのに、と。
だからこそ常に最優先は
「誰がやったの?」でした。
(もちろんそれが自分の時には素直に受け止めるわけですが)


どこへ行っても同じことでした。
そして
誰かが誰かのやり方を非難し続ける環境に突っ込みました。
結果的には良かったのだと思います。

自分のことでもそうでなくても
とにかく思い込みや誤解でなにかと言われる環境に身を置きました。

気持ちは摩耗し疲弊していきました。
自分の言葉を聞いてもらう前に
叱られる、怒られる、誤解される。


次第に疲れ果て
ふっとどうでもよくなりました。
誤解がなんだというのだろう。
ここでのことが
いったい私の本質のなにを損なうというのだろう。

「わたしはいったいなににこだわっているのだろう?」

そして
怒られないようにも
叱られないようにも
誤解されないようにも
何一つ問題を解決しないのだと思ったのです。

組織の中での有事の際に
最も率先されて必要なのは
おそらくは犯人探しではなく対処なのだと。

「誰がやったの?」
ではなく
「この場をどうするか」
が先なのだと。

もちろん責任の所在は大切ですし
なぜそうなったかは大前提ではありますが
それは改善点であって
その場の対処ではないのだと。
少なくとも私が身を置いた環境は
それを必要としていました。

これが正しいとか
そういうことではないのです。
ただ、
捉え方を納得した形で変えるということがあったということなのです。


そしてそのうち
誰がやったの?を先には考えなくなりました。
どうしよう?が先です。
そうしてみてみると
誰がやったの?にばかり目がいく人も
少なからずいるのだと感じるようになりました。

これをこの歳になってこういえるようになったのは
本来恥ずべきことなのかもしれません。
愚かなのかもしれません。


変なこだわりから抜けて
見渡すと
自分が不手際を起こしたことがあります。
周りに大変な迷惑をかけました。
けれどその時周りが私に言ったことは
責めたてるような、敵を切り捨てるような言葉ではありませんでした。

「これで全員であたって解決すれば終わったこと。
次を起こさないようにすればいいし、
今回の件でその対策を必要とするってことが
周りにわかったんだよ」

大人が子供に言い聞かせるようなことを
改めて言われることについてはどうなんだろうというのは
さておき。

私の周りは解決を最優先とする人ばかりでした。
私があれほどまでに固執していた
「私はやっていない」
にどれだけの意味があったのだろうと思いました。


もちろん、事の大きさによります。
内容にもよるでしょう。
当然ですが
誰がやったものでもいいということではありません。


捉え方ひとつ。
感情の落とし所ひとつ。
それで世界が様変わりすることもあるのではないか
とつくづく思ったのでした。

なお
こうなってからも
対応がうまくなったわけではないですし
対処スキルが格段に身についたわけでもありません。

ただ、腹を立てることは減りました。
壊されたものに腹を立てても直らない。
ならこの代用はどうするか、といった具合に。



仕事帰りの空をぼんやり見ながら
ひとりぼっち反省会をします。
そして嫌なことも自虐の念も全部に蓋をして
通りすがりのゴミ回収箱に出して帰ります。
自分のまずさを反省した後に。

そして家にはきれいな空を撮って持ち帰ります。


こんなはずではなかった。
今日は笑えなかった。
それらは明日を定めません。
明日を決めるのは明日の自分です。
(事前準備が必要なものは除く)

明日を笑うためにどうしましょう。
お風呂に珍しい石鹸でも使ってみましょうか。
いつもと違うお菓子でも食べてみましょうか。


そして多分一番大切なことは
ぐっすりと眠ることなのです。
睡眠が一番の回復薬だと思っています。
(不眠気味の人は早めの対処を推奨します。
ある一定になると
疲れを自覚できなくなったりします。
睡眠不足は心身共に全身にたたるという持論。)



いつも
自分にとって最良の捉え方ができたらね。
そんなことを考えながら今日も帰宅しました。
ではまた。

2015092921244900.jpg


見かける度に
いつか撮ろうと思っていたもの。
通学路や通勤路のため
人がいないことがあまりなく
なかなか撮れずにいました。
可愛くないですか?
古い切り株から緑緑しい葉っぱがでているんです。
新芽ではなく
明らかに違う草が苗床にしちゃったみたいで。

世代交代とは少し違いますが
循環していたり
世界はつながっているんだなと思います。
これを人為的にやると
少し違う感じがしちゃいます。


道端や空を眺めて歩くのが大好きです。
でも撮影しているのを見られるのは
ちょっと恥ずかしい。