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Mizcocy Uamo

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仕事に平日をもっていかれ
もともと体力が底辺で虚弱体質なので
土日は休養にもっていかれ。
趣味もなかなかできず
疲れきってただ寝るだけ。
そんな毎日を送っていると
鬱々してきたり
生きるってこういうことだっけ
と思ってしまったり。
充実感よりも疲労感が勝ってしまうと
どうにもいろいろなことを否定しがちで
それではいけない気がしても
疲れて考えることもできなくなる。
忙しければ忙しいほど
それが楽しさを伴わなければ伴わないほど。

日々の中に小さな楽しさや
嬉しさを見つけようとしても
疲れた頭は違う反応ばかりするし
疲弊した心は素通りしてしまう。


そんな時に
少しだけ自分にご褒美を用意する。
今回は
年度末の激務の中、
ふっと目に入ったツイートで
宣伝されていたノート。

可愛くて、つい、
そこにでていた6冊を購入してみた。

ノートはもともと大好き。
今からなにを書こうかなって考えるだけでわくわくする。
こんなに自分好みの可愛いものであればなおさら。


こういうアイテムって大切だなと思う。
自分のモチベーションを上げることができるアイテム。

仕事用のノートは
時間とお金をかけて決めている。
ビジネス用の高い革製のものとかではなく
ファンシーだったり子供用だったり。
とにかく自分が気に入ったもので
長持ちしそうなもので
つくりがしっかりしているもの。
紙質は見る。
破格的に安いとどうしても紙質が落ちるので
一定より高い金額のものになる。
仕事用ノートは
何年経ってもめくるように
丁寧にまとめていくようにしているので
経年劣化がひどいと困る。

機能性やデザインやいろいろなところを見た上で
自分好みのものを探す。

前回のノートは
表紙が全面ペコちゃんのリングノート。
けれど一見ペコちゃんってわからない
ミルキーの包み紙のような表紙で
とてもお気に入りだった。


機能性重視の文房具や
シンプルな大人の文房具。
それらももちろんステキだけど
社会人だからって大人だからって
絶対にそれってことはないと思っている。
職場や環境にもよるかもしれないし
もちろんTPOはあるので
会議の場で開くような用途なら考えるけれども。

デスクカレンダーは百円ショップでのぐでたま。
1年間みるし、ぐちゃぐちゃ書き込むから
どうせなら見て自分が癒されるものがいいなと思って。

付箋も可愛いものがたくさんあるけど
相手がいることに使うことの方が遥かに多いので
そこは無地かスッキリしたもの。
相手が親しい友人ならともかく
そうではないのでちょっと残念。
親しい人用に可愛いものもいくつか用意しているけど
付箋の役割上、
大切なのは書き込めて読みやすいことだなとつくづく思う。


とか。
ちょっと自分が楽しくなるための出費。
最近は安いものから高いものまで
多種多様で楽しい。


文房具が大好きだけど
実は仕事用の手帳は持たない。
スケジュール管理は小さなデスクカレンダーと
月分カレンダーで行う。
あとは
※何日までにどれをする
※これらをどこかでせねばならない
の二つをそれぞれ書き出すメモを用意して
消去していく。
あと周りにやらねばならん付箋ペタペタ。
これはデスクワークだからまかり通るのかな。
手帳管理の人もいるし
メモ帳管理の人もいる。
いろんなやり方があっておもしろいなと思う。


そんな日々。
ペンはデザイン云々より
消耗が激しすぎて
書きやすくて安価が一番かもしれないなと
思う今日このごろです。
耐水性ゲルインクも好きだけど
仕事は油性ボールペン派。

ではまた。



ツイッターで先に書いたことにかなりの量をつけたして

少しこちらでまとめてみようと思う。



<呟き開始>


かつて某有名SNS内において、見知らぬ人に声をかけられた。

プロフィールは男性で、二か月くらい会話をしていた。

作品や文才をとても褒めてもらった。

とにかく褒めちぎってくれて、その人のお勧めの記事とかにも名前とか載せてくれた。

するーっと自然にフェードアウトして、そんなことがあったこと自体をまるっと忘れていた。


それから6年くらいかな。もっとかな。

友達4人でボーリングしに行って、名前をネットネームでっていれた。

普段ネットでやりとりする子達ではなかったから私以外の名前を見ることは新鮮だった。

年に一度会うか会わないかのグループだった。


「これ昔使ってた某SNSのアカウントー」

って他の子に説明するのを横目にふっと画面を見たら、瞬間的に思い出した。

これ、あのアカウント名だなって。

そういえばこの子、他の子にも知らない人装って仕掛けてたなって思ってやりとり思い出すと、

もうその子まんまだったなあって合点がいった。

その子は多分、私としたやりとりなんか忘れていて、だから使ったんだと思う。

途中からやりとりに本気で喜んだりする私にバツが悪くなって止めたんだろうなって

ゲームの間ずっとその画面見ながら考えてた。

多分悪気や悪意ではなくて面白半分だったんだろうなと。

ちょっと過去の自分に笑ってしまった。

その子にはなかった話。

私には残っている話。

嘘をついたことを忘れてしまったら本当に嘘になる。

そんな話。


さらに数年経った今でも時々思い出しては笑ってしまう。

簡単に喜んでしまったこと。

うっかり相手がミスしてしまったこと。

やりとりしている間、本当におもしろかったのかなって今も謎のまま。

もう時効な気がしたのでオープンにしてみる。

そういった想いをしたことは何度かある。


向こうは嘘を私についたことを覚えていない、

私だけが覚えていて(思い出してしまって)、

記憶の照合をして後から嘘だったことが発覚してしまう。

自分側だけがそれに気づいてしまう。

二人の秘密にすらならない歪な思い出現象。



<呟き終わり>


私の場合、

裏切りとか嘘とか、それに腹を立てたとか悲しかったとかではなかった。

ただ、どこか寂しいような、

気持ちがてんてこ舞いした当時の自分がちょっと気恥ずかしいような

半ば呆れて苦笑いするしかないような不思議な感情。


だから別にその子を責めるとかそんな気持ちはなくて

ずっと心の中においてあった。


ただただ不思議で。

もうその子の中に残っていないこと、後になって自分の中に居座るほどのものに化けたこと。

(悪い意味ではなく、衝撃というか驚きが大きかった)



これとは別件で、

とても大切な他人に

とても大切に共有していた記憶を忘れられてしまったことがある。


少し書けないような事情があるのだけれども

あれほどまでに何度も共有していたそこが先に失われるとは思ってもいなかった。


悲しいよりも悔しいよりもなによりも先に

その思いがけない

「そうだっけ?どうだったっけ」の一言に頭が真っ白になったのを覚えている。


昔鮮明だったなにかの形が、壊れていくのはすごく寂しくて、

だから、(他の何事においても)今(を/こそ)大事にしとかないとダメだなって。

その時に強く思った。



時々、感傷的になっては、

遠いあの日が嘘だったような気がする。

まるで映画を観ているように私はもうその画面の中にはいない。

あなたの人生に少しは色を添えられたかしら。

その答えももうおそらくはもらえないのだろうけども。



記憶ってほんと不確かで永遠なんてなくてなのに世の中を席巻している不思議なものだなって思う。

ミスリンク多発の中で何一つ確かなことなんてないのに、みんなは記憶をつないでいこうとする。




片方だけに残る共有の想い出は

もはや個別の記憶でしかなく

けれどそれが色褪せて変色したとしても

きっとそれは自分を彩るもので褪せてなおあやふやにしかし消えないもので。




あの時見知らぬ人に褒められたことが

その時の私の活力になったのなら

その言葉はきっと私にとって良かったこと。


その行為がいいことなのかはともかく

その時の私は嬉しかったのだから。



そんな浮かれたあの時の私の感情を

他人の一言に浮かれた私の感情を

誰も知らないまま、相手すらもう知らないまま。



世界にはそんなことがたくさん落ちていて

共有できないで転がった相手のいない感情たちが

そこらじゅうで風に吹かれて踊っている。



これを読んだ人たちが

なにかをもし感じたのなら

相手がいなかったはずの感情たちが形を変えて

共有できる想い出に変わるのかもしれない。




そうして失われた記憶たちが

共有化失敗の想い出たちが

二人の秘密にすらならない歪な思い出現象が

他の誰かとの真円を描くこともあるのかもしれない。



心の中に想い出を密閉している。

それはどこかからなぜか漏れ出して

違う想い出を引き寄せる。



寂しいし悲しいことだってある。

その誰かともう同じものは共有できなくても

違う誰かと新しい何かを共有する糸口になることだってきっとある。


そんなことをぼんやりと考えながら

私にとっては貴重な体験の一つで、それぞれ最上級の小瓶に詰めて大切に飾ってある。



だからってそれがいい行いかどうかというところは別のお話。

そこは、もちろんね。



そんな昔話。

ではまた。

こんにちは。管理人です。
更新する詐欺が続いています。

さて、みなさん春です。
唐突ですが、春です。

いろいろなところで、いろいろ大変なことが起きています。
それについての言及はやめておきます。

私は私の日常を捉えることにします。
もちろん、それは全くの無関係ということではなくて
けれど、確かに対岸であるという立場を自覚したうえです。


創作がライフワークだと言い切っている割には
一切の活動をしていないという体たらく。
創作好きを語るべきではないのではないかとも思えている今日この頃です。

その代わりと言ってはなんですが
仕事はがんばっています。
かつてないほど真剣に向き合っています。

その歳でいまさらかよという突っ込みもあるとは思いますが
何歳からでもいいじゃない。
がんばりだすのは何歳からでもいい。
そういうことにしておきます。


やりたい仕事なのかと言われると、断言しますがそうでもありません。
残念です。
労働の契約条件がマッチングしているからやるだけです。


ただツイッターでも散々呟いたんですが
ここに以前書いた気もするんですが
今やっていることに無駄なんかない気がするんですね。


私はどこかで絵の勉強をしなくてはとか、書く練習をしなくてはとか
この時間をもっと創作に使えたらいいのにとか
そんなことばかりを考えていたのです。

途中からなんだか「やらなくては」感があって
「やりたいからやる」はどこへ行ってしまったのだろうと思っていました。
しかし今の仕事でその辺りの意識が少し変わりました。

今の仕事になってから、
一つの業務が周囲に与える影響や自分の仕事の範囲について考える機会が多々あります。
一つの事で考えなくてはいけない分野と範囲を推測して動かねばならないことがあります。

私はずっとそれは誰かがすることだと思っていたのだと思います。
そういうことは他の誰かが考えてくれることで
自分はただ指示に従えばいいのだと。

この歳までそう思わなかったことは愚かなのかもしれないし
ここでこう思えたことは良かったことなのかもしれません。


今の周囲は私のできることを増やそうとしてくれます。
それは善意だけとは限りません。
自分が楽をしたいからの人もいれば、責任をおしつけたいからの場合もあります。
また良かれと思っておせっかいの度が過ぎる人もいます。

それは明らかに私に求めることではないのではないか(立場的に)
と思うようなこともありました。
意見や考え、仕事のやり方の圧しつけ、世代間の違いの齟齬などもありました。


正直腹を立てることもありました。
苛立ちも、そこから感情をだしてしまったことも。

その代わり、全く関係ないところから救いの手がありました。
愚痴を聞いてくれる人がいました。

それらの経験は回数を重ねるごとに気持ちを変化させました。


言われることを不快に思うなら
言われないように先回りをすればいい。
足りていないことを責められるのなら
次はそこが欠けてないように気をつけよう。

そうするために私はそもそもどこまでを意識して考えておかなくてはならないのか。
そこを考えるようになりました。

それですぐに結果につながらなくても、
その意識が変わった部分は他者に映るのだと実感しました。

今もそれで結果を出せているわけではありませんし
エキスパートになれるわけでもありません。

一回でできるようになる人と
何回やってもできない人がいます。
今でも資料一枚から読み込める幅は大して広くありません。
けれどそう意識することとしないことは全く違う話だと思っています。
結果が出せないということは同じでも。
仕事なので結果を出せないとなかなか評価はされないところです。
評価されるために自分がどう動くかは自由です。
評価そのものが結果論だとしても、そこの指針を決めるのは精神論と根性論ではないかなと思っています。
その上で結果が出せれば理想的な話だと思います。


それはさておき。
ふっと、そんな日常で考えること、感じることが無駄なのかなと思いました。
やりたいことをやっているわけではないから
だからってなんなのだろうと思うようになりました。

私が今やらなくてはならないことは
絵の勉強?文の練習?
やりたいことをやっているわけではなくても
何かができるようになることは自分にとっていいことではないの?

これらで変化した意識や身につけたものは、
他の場所に行った時に不必要なことかしら。


むしろ、ここで考えたこと感じたことを書いていきたいなと思うようになりました。




当たり前のことですが、
この時間を創作に充てている人とは土俵が違います。
その人たちはそれらを表現する技術にたけていくはずですし
そもそも別の意味で厳しいところを駆け抜けているはずです。

二足のわらじでも作品を作る人は作ります。
やる人はやります。
つたなくても形に仕上げます。
または一足のみで駆けていく人もいます。


それを比べてどーすんだってブーメランが返ってくるようになりました。
ようやくそこです。
この歳で。
いい歳こいた社会人が。
ようやく。


いいじゃない。
生きることはいつだってなんだって発見だよ。
今は苦笑いしつつそれで疾走です。


私は私のペースでってそういうことだ。多分。
ずっと自分が口先で言ってたことが実感で返ってきた。
頭で考えて唱えていたことを身体で納得した。

そんな感じです。


例えば、いま、あれだけ描きたかったことが形になっていなくても
私はそれを描くために毎日をがんばって「生活」しているのだし
そこを自分の基準で手抜きはしていないのだから
間に合わなかったのかって思うだけで
やり残して悔しいとは思わないのかもしれないなという気がしています。


一芸に秀でていなくても
形にならなくても
自分が自分の歩いている道を肯定できるのであればいい。

それは無理な納得や
理屈による強制的な肯定ではなく

あ、これでいいかな

って思って清々しく帰宅できたり
優雅にお茶が飲めたり
浮き浮きと目的地に向かえたり
できることかなって思っています。


以前はこんなのはただの言い訳で
情けないって捉えるようなことだったんですが



いや、やることやってるし。
できる限り精一杯やってるし。
よりより自分になるため自分なりに頑張ってるし。

それでもなんで自分のことを責めにゃならんのだ。
結果が出てないから?
実績になっていないから?
じゃあこの毎日は無駄?

結果を出すための過程は
実績を積むための毎日は
どこにあるもの?



「結果が出ないと意味がない」
って、いろんな幅での捉え方がある気がして
「結果を出せないと意味がない人間」
てことにしなくてもいいんじゃないかなって気がするんですね。

んでその上で結果を出せる人間になりたいなって
ようやく今そこなんですよ。
この歳で。
もう笑うしかないけど、目指す足はあるわけだから歩くしかないよね。
黙って座って空から落ちてくるならいいけど
なかなかそういうことは巡り合えないものだから。




多分、今の日々を一言でいえば
充実しているんですよ。

仕事人間ってほど仕事人間ではないし
趣味活動は激減しているけど
毎日疲れ切って帰ってご飯食べて仕事のこと考えて
考えんのも疲れて明日の自分が考えようって風呂入って寝る。
朝日はやっぱり気持ち良かったり
雨の音が心地よかったり
風で季節を感じたり

そんで疲れ切って、星空眺めて帰ったり
姉の子供たちのお菓子買って帰ったり

そういう毎日が、好きなんだと思う。
仕事そのものはやりたいことではないはずなのに。

そしてやっぱり、そういうことを書きたいんだと思う。


職種なんか関係ないし、働いているかどうかも多分違うこと。
自己否定と自己肯定と捉え方と受け身のところ。


誰かががんばる毎日同士がぶつかり合って
社会を形成していて
人の群れ。
地球上に大きな一つのコロニー。


その化学反応はたった一度、一回きり。
同じ反応は二度となく
座標が同じところを指すこともない。




その線香花火のような毎日を、私は美しいなあと思ってしまうお話でした。
ではまた。