Mizcocy Uamo -2ページ目

Mizcocy Uamo

地味に創作活動をしているので無断転載等は遠慮お願い申し上げます。
Don't use texts in this blog without permission.
Copyright(C) 2003-2015 "MizcocyUamo", All right reserved.
Thank you your understanding!

毎日が楽しいと思えること。
うきうきすること。
こんな日々は本当に久しぶりで
嫌なことにも耐えうるだけの心を維持してくれる。


今日は月が大きくきれいで
まるで目玉焼きみたいで。
おいしそうだった。



がんじがらめにしないで
こうすべき、とか、こうであるべき、とか
決めつけてしまわぬよう

じぶんをからめとらずに
その足取りに制限をしてしまわぬよう


それをいましてもいいし、しなくてもいい
その結果が次の自分に返るだけの覚悟で
多分それだけでいい


強くはなれない
けど自分が思いたくて描くほどには弱くもない

すぐには変われない
けどするかしないかの選択は一瞬で覆すことができる




そんな理屈ばかりを考えていたって
どうしても感情は上手く操れないし
自分は上手にはできないから

ゆっくり深呼吸。
誰の速度に合わせる必要もなく
今一度



ささくれだつ気持ちを
抑えられない感情を
なにかいいものに代えたいと必死になって


自分に大丈夫と暗示をかける。
だけど時々大丈夫なんかじゃないと喚きたてる。





大きな月が
なにも責めないしなにも怒ってなんかいない
自分はなにとたたかっているのだろう?


わたしは
この大きな世界の前に
なにとたたかえているつもりになっているのだろう?


ただ空が青いだけでも
風が爽やかなだけでも

泣きたくなるから


美しいと泣きたくなるから

がんじがらめの鎖をほどいて
立ち止まってただ深く息を吐く。





気持ちに拠るものは
どうしても思考ではなかなか解決できないから
自分が心地よいと感じるものに身を投じて


健やかに眠れるよう。


私は夢の高校に通っている。
と書くとどんなところだという話だが
正確には睡眠時に
高校を卒業できない夢を見続けている。

どうしても出席日数と単位が足りなくなるし
通えなくなるのだ。
通えなくなる理由はよくわからない。
遅刻が続いたり学校へ行くのを忘れていたり。
気づいたら取り返しがつかなくなっていたり
とにかく辞めることもできず、
しかし卒業できない。

この夢は定期的に見る。
私の夢はあらゆる記憶がごちゃ混ぜになって
あらゆる矛盾や有り得ないことも
普通に当たり前のようにまかり通るので
(空が飛べたり校舎と家が合体した店があったり)
通っているのは現実に通った場所ではない。


私はずっと、
高校時代をやり直したいと思っていた。
社会人になって5年くらいは
強くそう思っていたし
高校三年間は黒歴史だった。


外界を遮断し閉鎖的に
後になってみれば
まるでなにか違う人間の皮を被っていたような感覚。
実際には遅刻早退欠席は多々あったものの
不登校でもなくいじめにも合わず
「ただ通っていた」。

しかし幼稚園に入る前からの記憶の線上で
この三年間の記憶はひどく曖昧模糊で
小学校の記憶よりも抜け落ちている。


授業は好きだった。
友達もそれなりにいた。
イベントごともあった。
部活も引退までやった。

けれど
自分はただ流れていた。
思春期特有なのか
ただ空っぽの形骸が川を流れていただけのような。

ずっとその時間を
取り戻したい
やり直したいと強く思っていたし
囚われていたし縛られていたし
捕えて縛っていた。

だからそんな夢を見るのも当たり前だと思ったし
夢でまで縛られていることにうんざりもしていた。



ところが、だ。
いつからかな。
前の職場で身体をひどく壊して
半年間、社会から完全に離れた。
その時のことはこのブログにも残っている。
それが約三年前のこと。

その休養が終わる時には多分、もうなかった。
あの妄執も偏執も。
それに気づくことさえ遅れた。


いつの間にか
変なこだわりも自分の中の確執も形を変えていて
誰に何かを言われたわけでも
なにがどうこうしたわけでもなく
ただ、すとん、と自分の喉元を過ぎて
消化されていた。



今、振り返っても
もう、なにがそれほどまでに
取り返したかったのか
なにがそんなに認められなかったのか
その感情も感覚も当事者のようには思い出せない。
体感として引き出せない。


結局は自己否定の塊で
過去に固執して、
現在を潰して未来を道連れにしていたなと
そう思う。
それがいいか悪いかは自分が決めることだし
他の誰かが過去をひきずっても
とらわれていても
それは、それでいいかどうかは
その人が決めてその人が噛み砕いていくこと。
いいも悪いも、他者には主観的には決められない。
(客観的にそれを決めるのは単なる周りの意見だ)
私はそう思っている。


そして数年前に
私は夢の中で確かに卒業証書を受け取った。
ようやく卒業できた、と
呟いた気がする。

ところが、だ。
久しぶりに卒業できない夢をみた。
それがちょっと
どうも様子がおかしい。

社会人学生で
仕事に行くから日数が足りずに卒業できないだとか
仕事と学校どっちに行こうかとか
卒業できない理由が変化した。
夢というものはおもしろい。

高校へのこだわり、というよりも
そこにこだわっていた自分、を形にしたのかなと思う。
夢の中で私の気持ちも行動も違ったものになっている。
前のような
焦燥感でも悲愴感でもなく
物理的に解決できないけどどうしようかな、のようなスタンス。


私はまだどうやら卒業できないらしい。
なので夢の中で長い長い高校時代をやり直しているようだ。
授業を受けたり友達と遊んだりのシチュエーションはない。
朝、制服に着替えて学校に行くか。
その日数が足りるか、そこがメインで繰り返している。
私はまだ通わねばならないらしい。



あの妄執が晴れた理由は
抽象的に明確だ。
私はずっと
思い通りにできない自分を
思い通りにできなかった自分を
自分の歩いてきた、理想とかけ離れた結果を
肯定したくてたまらないのに
否定しかできずにいた。
きっと「いま」が見えていなかったし
見えているはずのものを
見えないようにしてきた。
(見ないようにではない)


いいか、わたし。
どこまでいってもわたしはわたしだ。
自分が逃げること
逃げたいこと
立ち向かいたいと思っているのに
立ち向かえないこと

逃げてもいい
投げ出してもいい
そのうち
それらに向かえる日が来るかもしれない
向かい合わなくてもいいのかもしれない


だがな、わたし。
おまえが立ち向かいたいと思っていることは
何処に行っても
何をやっても
どんな環境の中でも
決まって自分が逃げ出したくなるような場面で
自分が立ち向かいたいと思ってしまうものだ。

わたしは、わたしなのだから。

今が無理なら遠回りしてもいい。
諦めることも休むことも
逃げることも投げ出すこともなにもかもが自分の決断一つだ。

その決断を許せるかどうかは
自分が自分を許せるかどうかは
自分の在り方ひとつだ。


自分がもし
嫌だと思うことに
本当はそれをやるべきでやらなければならないと
そこから目を背けるような自分が嫌で
逃げ出すことにうんざりするなら
それが原因で
自分のその決断を嫌なものに変えてしまうと思っているなら

多分何処に行っても
それに面したほうがいろんなことがはやい。



多分、要すればこの辺りと結びついているんだと思います。
いろんな人がいるし
いろんな性格があるし
思考もなにもかもが十人十色ですから
これがいい、とか
正しい、という類いのことではないのだと思います。
精神的に無理をするとかそんな話とは少し違うのです。

自分にとってはこの辺りのことが
キーだったんだろうなと思っているだけのことです。



本当に自然にすこん、と抜けた感じで
高校をやり直さなくたって
今の自分が毎日をやり直しているようなもんだなって。
そんだけのことだなって思っています。
思えるようになったというのもおかしいし
思うようになったというのも少しずれます。
ふっと後付けで考えてみたら
いつのまにかそう思ってた感じ。


自分を意図的に納得させることは
一番難しいことだと思います。
頭で理解していても
感情は別物だからです。


私は学校という空間がとても好きなので、
もしかしたらそれで夢にみるのかもしれません。


夢の中の学校で
私は何を学ぶのでしょう。
「である」口調で始まったこの記事が
「ですます」口調で終わるこのどうしようもなさが
なんとかなるのでしょうか。


言うほど嫌なことには立ち向かえていませんし
逃げることも多々ですが
できない理由や
やらない理由を
あれこれ考えることはなくなりました。
どんな言い訳しても
自分はそれをやらないのだから。
この辺りの考え方は
仕事と密接な関係です。

また改めて
こことそこが変わらない話を書けたらなと思います。

ではまた。
「お人好し」と言われたことについて
ざっとその内情を書いて整頓してみようと思う。


そもそも「あの人は優しくしてくれる(意訳)」
と言った私への返答が
あなたはお人好しね、である。

その相手は腹黒い計算の上で
そうしているだけなのだ、
と相手は言った。

しかし、だ。
そんなことはわかりきっているのである。
学校でもなければ
慈善事業でもない。
友達でもなければ家族でもない。


自己利益や損得勘定で上手く立ち回る人
上手く、立ち回らずにいる人。
そこのところで回している部分があって
そうである人と
そうでない人がいる。

この数年間で見てきたものは
とにかく自衛せよ、という
社交技術、処世術だった。


さて、私に優しくしてくれる人がいて
その人は私の評価と密接につながっている。
つまりは私がよくできれば
その人にも益がいくし
私ができなければ
その人には損になる。
そんな関係にある。

そして優しく教えてくれるし
私に気をつかってくれる。
それは自衛しているだけだ、と
言われれば
確かにそうだろうなと頷く。

しかし。
そんなことはわかっている。
それでもその優しさがありがたくないかといえば
はっきりとありがたい。
どんなところに基いていても
その行為は優しいと私は感じている。

その受け取り方に
「この人はそんな(損得勘定なんかで動く)人ではない」
などという思考は入っていない。
「(損得勘定であったとしても)優しいなあ」
である。


ここで
お人好しの定義とはなんだったかと考えてしまうのである。


その気持ちが本当かどうか
私のためになのか
自分のためになのか
そこはさておき
私のためになっているなら
私には万事オーケーだ。

こんなことを考えている私だって充分に腹黒い。
それで相手のためにもつながるのであれば
なおさらそれはよいことだ。


「都合のいい人」にされて
「貧乏くじを引く人」にされるとして
「都合よく使われてるね」と言われても
それで自分になにが害だろうかと考えてしまう。
めんどうごとをおしつけられて、とか
その部分だろうか。

けれどその経験値は自分に残る。
私はその対価を見えない消えない形でもらっている。
そこでめんどうごとを片していけば
一部好感度(表層上)もあがる。
自分のスキルもあがる。
ストレス耐性も多少のびる。(多分)

そもそもそれをめんどうだと思っていなければ
利益のみだし
その上みんなからは同情される。


はて。

いつだったか「貧乏くじを引いたね」
と言われたので
「いや、貧乏くじとは思ってない
当たりとは思わないけど
損ではないし貧乏くじではない」
と返したら大層驚かれた。


はてはて。


確かにめんどうごとは嫌である。
受けたくないやりたくない。
誰かがやらねばならないことで
なぜかいろんな理由をつけて指名されるとして。

誰かがやらねばならないなら
私がやらなくても誰かが必要だ。
誰もがやらないなら解決しない。
それは果たして貧乏くじだろうか。

では
その貧乏くじを誰かに圧しつけるのだろうか。
見えない圧力で
誰かに貧乏くじを引かせるのだろうか。
誰かがやれば解決することを。


もちろんできることとできないことがある。
逃げたいことと引き受けてもいいと思えることがある。


けれど最近
逃げたところで竦んだところで
(自分が)なんにも変わりやしないんだと
思うようになった。
誰もそんな貧乏くじをパーフェクトにやれとは期待していない。
失敗しても平均点でも
誰かがとりあえず受け皿になってくれればいい、のだろうと。
なら受けてもいいやと
自暴自棄のような開き直りのような
前向きに見えるような
そんな割り切りかたをするようになった。
実際、逃げ口上を考えるよりも楽だと思う部分もある。
(私は逃げ口上が苦手で直球しか言えない)


そして都合のいい人につながっていくわけだが
それがいい人だということでもなければ
優れた人だというわけでもなく
都合のいい人は都合のいい人である。
頼みやすい、圧しつけやすい。
断らないイエスマン。


それは、悪名だろうか。


信用とも信頼とも結びつかない
ただの便利な人扱い。
みんながみんな、本当にそれだけだろうか。

損得勘定だけで
その他は全てが虚構の嘘八百だろうか。

そうだったとしても
それらは自分にとってマイナスなんだろうか。



そんなことを考えながら動いている私は
「お人好し」
なんだろうか。


すなおに信じているわけでも
ほんきで誰かのためにやっているわけでもない。
損得勘定だけで動いているのは私かもしれない。



そんなことをつらつらと感じながら
実際はできないことにはノーもいうし断りもする。

いつでも「誰か」になるわけではないし
いい人にはそうそうなれない。
お人好しにはなかなかなれない。


ところで
「あれはあなたのせいだよ」
と歓談中に大勢の前で強い口調で明言されたことがある。

相手に悪意などないし怒ってもいない。
自分自身も自覚していた事だったので
「そうなんです」
と返した。
そこに傷つくもなにもない。
ただそれだけ、自分が強く感じていたことを
たまたまその人が口にしただけだった。
私の中では他になにもない話。

ところが後日
他の人が責めるようなニュアンスで
「なにもあの場であんなことを
あんな言い方しなくてもいいのにね」
と私に言ってきた。

それを聞いて大層大層驚いた。
なんとまあ。
受け取り方は十人十色とはよくいったもの。
気にしてはダメよと慰めてもらって
励ましてもらった私は呆然とした。


悪意なんかなかった行為が
なんだか悪いことにすりかわる瞬間をみた気がした。
どちらにも悪意などないのに。


私にはその捉え方はなかった。
どちらの見方がいいとか悪いとかそういうことではない。
励ましてくれた人はそれについて
本来そうすべきではないと感じただけだ。

私は誰かの思惑を上手く図れない。
日常そんなことがままある。
受け取り方の相違。
誰が悪いとかそういうことではなく
なにかよくない方向になってしまう結末。
表層上の言葉を鵜呑みにしてしまう。


不思議だなあ、と今日も周りを見渡して、
私はここで踊っておけばいいかしら。
みんなの計算の上で踊っておけばいいかしら。
そんな計算と損得勘定。
それでいったい
お人好しはどこにいるのかしら。
そんな日々。


貧乏くじも数を引けば当たりを引くよ。
表層上の感謝でも
嘘八百の感謝でも
ありがとうは、
悪口よりも嬉しいし好きだな。

そんな僻地に着地して
単におしに弱いだけかもしれないな
というところで終結。
ではまた。