僕は秋が好きだ。

移動する時には秋を意識する曲を聴く。


最近は小田和正なんて、

まさに秋という感じで好き。



歌も手放しで愛を謳歌するような曲よりも、

「9を犠牲にして、残りの1を手に入れた」みたいな曲が好き。



音楽に限らず、何かを失いながらもあるものを

手に入れるような哀愁が漂うものが好き。



そんな哀愁をもつ秋が大好きである。

人間は不完全なものに惹かれる。

不完全が故に惹かれる。



「海辺のカフカ」にこんなことが書いてあった。



確かにそのとおりだなぁって思う。



どんなものにしても、

人間っていうのは完全なものを求めこそすれ、

本当に完全なものにはあまり興味を示さないように思える。



もっとも、完全なものなんて何も無いんだけどね。



完全になることが理想なんじゃなくて、

完全を求める過程の不完全さが理想なのかもしれない。

ほかのサイトではあるけれど、

自分が2年くらい前に書いてたブログの内容を見て愕然とする。



これ本当に自分なの?



内容がどうこうではなくて、

言葉の使い方も問題だけれど、

何よりも考えてるものの浅さがひどいものだった。



2年前の自分と今の自分を比較して

まったく変わってないと思ってたいたけれど

そうでもなかったんだなと思った。


ただ、昔はそういう自分の過去の日記などが出てきたときは

「恥ずかしい」という気持ちしかなかったけれど、

今は「あぁ、僕も成長してないようで成長してるのかな」と

楽観的に捉えられるようになってきた。



変化というよりも確立という感じだけれども、

少しずつ成長してると確認できることは

安心するし、自信になることだなぁと思う。

花火大会は色々なことを思い出す。蔓を引っ張ってさつまいもを掘り出すように花火という触媒が花火にまつわる色々な思い出を揺り起こす。それも面白いことに花火の大きさの違いだけではなくその周辺にいる人たちの雰囲気、花火大会の環境、火薬の量、その振動に応じて思いだすことは変わってくる。

 今日の花火大会は高校生の時に毎年行ってた横浜の花火大会のことではなく、中学の時に初めてできた彼女と行った鶴見川の花火大会を思い出した。ちなみに鶴見川というのは東京都の町田のほうから流れている神奈川東部の川で、以前テレビで有名になった「タマちゃん」もその川にしばらく生息していたこともあって、知っている人は知っている川である。


 当時15歳の僕は初恋の子と付き合った。そんな彼女とはいつも遊ぶという感じではなく、お互い運動部に所属しているということもあって、帰る時間が重なった時にだけ僕が彼女を送るというのが僕らのほとんど唯一と言っていいデートだった。(ただ、彼女の家と僕の家は学校を挟んで全く逆の方向だ)

しかし、結局彼女が部活先の1つ上の先輩を好きになったということで恋人という関係はそんなに長くはつづかなかったが、僕らは別の高校に行ってもお互いに新しい恋人が出来ても、定期的に会って自分の近況を報告しあう感じの仲になった。それはお互いの家に遊びに行ったり、僕が高校になってから覚え始めたドラムを教えたりと、不思議な関係は続いた。


 僕は高校の時に勉強というものをほとんどしなかったせいで、もちろん大学に入れるはずもなく、そして昔から頭のよかった彼女は当たり前のように大学に入っていった。僕たちは浪人生と大学生という、似ているようで相反する関係になり、その生活サイクルもまた2人とも変わってほとんど会うことも連絡することもなくなった。
 僕が浪人している途中、ある日彼女から連絡があり、それは彼女の結婚の報告だった。付き合っている恋人との間に子供が出来て、籍を入れた、と言っていた。それは僕にとって文字通り、ただショックな出来事だった。悲しいとか、そういう感情ではなく、自分の好きだった人が結婚したり子供が出来たりすると誰でも少なからず感じる独特の感情のようなものだったにせよ、当時の僕はかなりビックリしたのだ。


 彼女の相手は仙台の中にある有数のデパートの一人息子だったので、彼女も当然のように仙台に嫁いで行く方向で話は進んだ。結婚式も相手方はかなり多くの人を呼んだらしいのだけれど、彼女は本当に仲のいい友達3,4人と家族を呼んだくらいだった。僕も結婚式には誘われたが、結局相手先にも色々と都合が悪くなるかもしれないということで行くのをやめた。


 彼女に子供が出来て、1回会ったことがある。それは彼女が仙台に本格的に引っ越す用意を始めるために、休学していた大学を辞め、色々な手続きをしにこっちに戻ってきてる時だった。

 詳しいことは覚えていないが地元のファミレスで会ったのだ。いつものように最近の近況を話しあっていた時、ふと急に彼女が言った。

「私のお母さんはずっと、私と○○(僕の名前)が結婚するものだと思ってたわ。私もそう思ってたけど。もし私が今の旦那と別れてももらってね」

「いいよ、いつでも別れて来なよ」と僕は冗談にして返したけれど、このことは今でもたまに頭を掠める。彼女は本気そう思ってたのだろうか。もしかしたら僕も彼女と最後は結婚すると思っていたのだろうか。もちろん今はその可能性も無くなった。彼女は子供ができ、結婚して仙台に行ったのだ。さらに追い討ちをかけるように、僕は大学生になったその年の初め、携帯電話を落として彼女の電話番号やアドレスを無くしてしまった。

 それから彼女とは連絡は取っていない。


 そんな付き合っている時期よりも長かった不思議な関係は今はなくなったが、たまにふとした拍子に彼女の事を思い出す。今回それは花火大会だった。

 中学の時の鶴見川の花火大会では彼女と話したことはあまり覚えていないが、当時同級生の誰が誰の事が好きだったかとか、おそろくそんな話ばっかりだったと思う。そんな中で唯一覚えているのは、何故花火がどこから見ても丸く見えるのかということや、花火の音が遅れて聞こえてくるのは何故かとかそんな話だ。当時授業で習ってた理科の分野とリンクしてこんな話をしていたのでこの2つのことだけ鮮明に覚えている。記憶というのは一体どこを基準にしているのか、とても不思議だ。


 そんなことを今日の花火大会を見ている時にふっと思い出し、彼女と一緒に見た鶴見川の花火大会からもう10年の歳月が流れてるのかと思ったら、急になんともいえない気持ちになった。一緒に見に来ていた大学の友達にぽろっと「寂しいね」と言ったら、「そんなこというから俺まで寂しくなって来ちゃっちゃったじゃないか」と言われた。彼はおそらく、僕の言ったのは花火の侘びしさの事だろうと思ったのだろう。


 最初に書いた概要にも書いたことなのだけど、このブログを書くにあたってのルールを書いておこうと思う。

これは自分でも忘れないためでもあるし、自分の本来持っている性格や世界を大事にしていこうとも考えているからだ。

僕は文章を書くのが特別得意というわけでもないし、その時その時によって文章の感じや雰囲気が変わってしまうので、あらかじめここでちゃんとした定義めいたものを作っておいた方がよいと感じたのである。



1、文章は冷静に出来るだけ客観的に主観的なことを書く。


これが今回のブログで一番重要でいて、一番意識したいことだ。


客観的に主観性のものを書くということはなかなか難しい。それは自分が思っていることに根拠をつけたり筋道を見つけ、自分がどういうことに因んでその結論に至ったかを考える自己分析ともいえる作業はとても難しいし、これで終わりだということはまずない。

人間は理性の根本に感性があるというのが僕の心情なので、感じたことを体系化する作業をこのブログを通して、僕自身を知るためにも丁寧に紐解くことが重要なんだと思う。


一人称に『僕』というのを用いたことも自分自身に一番素直になれて、なおかつ自分らしい飾り付けの無い一人称を考えた時に、普段は使わない『僕』を使うことで本来の自分を表現できるのではないかと考えたのである。



2、感性を第一優先にして、あまり角ばった言葉で文章を書かない。


今僕は経済学部の4年生をしていて大学に入ってこの4年間、起承転結を意識したレポートを書くことが度々あった。

考察や論文についてはもちろん文章のルールがあるのだけれど、それは自分の中にある意見は考えを他人の考察や研究結果・そこに至るまでのプロセスを論理的に展開することが求められる。


しかし、これらの文章の作成法には共通言語にも似た一貫性があり、読みやすくする反面、感性の部分が表現することが困難なことも多々ある。それは自分が感じたことを全て説明することは難しい、良きにしろ悪きにしろ。

僕が思うに、日本語とは本来曖昧さをかなり含んでいる文章であり、言語自体の構造が小説等、感性を刺激して想像を膨らませるという点に関しては日本語ほど物語るのに向いている文章はないのではないのだろうか。


少し話がそれてしまったのだけど、僕が言いたいことは「感性の先に文章がある」ということだ。


感性があり、その先に感性のデバイスとしての言葉あって、意味が狭くなる言葉(一般的には難しいとされている単語など)を使って感性が窮屈になるのなら、いっそ曖昧な言葉を使うほうがいいかもしれない。

それは1の「客観的」との折り合いが難しいのだけれども。



これらのルールは今現在思いつく限りあげただけなので、後々にまた更新するかもしれないけど、今のところはこの2つをベーシックルールとしてやっていこうと思う。



今回新しくブログを始めるにあたり、先ずその理由から説明したいと思う。


僕は他にもブログを書いているんだけど、そちらの方ではどうしても友達に教えすぎてしまい、そのせいでどうしても書ける内容の範囲がかなり狭まった。


日記とブログの境目について前々から定義を考えているのだけど、まだよく僕は分からない。


本当は手書きで日記を書くのが一番だと思うのだけが、僕はどうしても遅筆で時間がかかってしまい、そして字が汚い。それに対してPCで文字を入力すれば、書くよりは早く打てるし字も綺麗だ。


そこで日記ソフトをダウンロードしてそれに書こうとしても何か物足りないものを感じる。もしかしたら心のどこかで『せっかく文章を書くなら誰かに見てもらいたい』という願望を抱いているのかもしれない。


そうするとやはりブログという形を取るのが最善なのではないかと考え、誰にも教えないこのURLで新しく始めるつもりだ。



ここには思ったこと・考えたこと・感じたことなどを自分に出来る限り、しっかりした文章で書いていこうかなと思っている。

そうすれば文章を書く上で練習にもなって例えこのブログが途中で断念しても少しは自分の中に積もるだろう。



一人称は「僕」。

こういうブログで一番の醍醐味は、絵文字をつけながら文章を飾っていけるというところだと思うのだけれど、自分が本当に思っていることをそういう手段を使って、ごまかすことにならないとは言えないので今回は本当に文章だけで書いていく。


その自分が持っている語彙力や文法が試されるというわけで、日々の文章力の向上を目標としていきたい。