最初に書いた概要にも書いたことなのだけど、このブログを書くにあたってのルールを書いておこうと思う。

これは自分でも忘れないためでもあるし、自分の本来持っている性格や世界を大事にしていこうとも考えているからだ。

僕は文章を書くのが特別得意というわけでもないし、その時その時によって文章の感じや雰囲気が変わってしまうので、あらかじめここでちゃんとした定義めいたものを作っておいた方がよいと感じたのである。



1、文章は冷静に出来るだけ客観的に主観的なことを書く。


これが今回のブログで一番重要でいて、一番意識したいことだ。


客観的に主観性のものを書くということはなかなか難しい。それは自分が思っていることに根拠をつけたり筋道を見つけ、自分がどういうことに因んでその結論に至ったかを考える自己分析ともいえる作業はとても難しいし、これで終わりだということはまずない。

人間は理性の根本に感性があるというのが僕の心情なので、感じたことを体系化する作業をこのブログを通して、僕自身を知るためにも丁寧に紐解くことが重要なんだと思う。


一人称に『僕』というのを用いたことも自分自身に一番素直になれて、なおかつ自分らしい飾り付けの無い一人称を考えた時に、普段は使わない『僕』を使うことで本来の自分を表現できるのではないかと考えたのである。



2、感性を第一優先にして、あまり角ばった言葉で文章を書かない。


今僕は経済学部の4年生をしていて大学に入ってこの4年間、起承転結を意識したレポートを書くことが度々あった。

考察や論文についてはもちろん文章のルールがあるのだけれど、それは自分の中にある意見は考えを他人の考察や研究結果・そこに至るまでのプロセスを論理的に展開することが求められる。


しかし、これらの文章の作成法には共通言語にも似た一貫性があり、読みやすくする反面、感性の部分が表現することが困難なことも多々ある。それは自分が感じたことを全て説明することは難しい、良きにしろ悪きにしろ。

僕が思うに、日本語とは本来曖昧さをかなり含んでいる文章であり、言語自体の構造が小説等、感性を刺激して想像を膨らませるという点に関しては日本語ほど物語るのに向いている文章はないのではないのだろうか。


少し話がそれてしまったのだけど、僕が言いたいことは「感性の先に文章がある」ということだ。


感性があり、その先に感性のデバイスとしての言葉あって、意味が狭くなる言葉(一般的には難しいとされている単語など)を使って感性が窮屈になるのなら、いっそ曖昧な言葉を使うほうがいいかもしれない。

それは1の「客観的」との折り合いが難しいのだけれども。



これらのルールは今現在思いつく限りあげただけなので、後々にまた更新するかもしれないけど、今のところはこの2つをベーシックルールとしてやっていこうと思う。