人間には、自分にだけ通用する言い訳がある。
しかも年齢を重ねるほど、その精度は上がる。
最近の自分で言えば、「今日は汗かいたから塩分補給」というやつだ。
製造業の現場仕事というのは、季節によってはかなり過酷だ。
特に夏場の工場は暑い。
大型設備の熱、空調の届かない場所、中腰作業。
気づけば作業着は汗で重くなっている。
だから現場終わりのラーメンが異様にうまい。
身体が塩分を求めている感覚がある。
そういう日は、自分の中で“スープ完飲許可”が出る。
「今日は塩分補給だから」
便利な言葉である。
多少健康診断の数値が怪しくても、この理論を使えば全部押し切れる。
汗をかいた日は身体が塩を欲する。
つまりラーメンスープは必要経費。
完璧な理屈だ。
……まあ実際は、そこまで汗をかいていない日にも普通に使っているのだが。
先日もそうだった。
現場帰り、駅前のラーメン屋に入った日のことだ。
その日は機械トラブル対応でバタバタしていて、昼休憩もまともに取れなかった。
夕方には腰も重く、完全に疲労モードだった。
「今日はもうラーメンしかないな」
そう思って暖簾をくぐった。
店は昔ながらの豚骨ラーメン屋。カウンター中心の小さな店で、店内には豚骨スープの匂いが充満している。
正直、服に匂いが付くタイプの店だ。
だが疲れている時ほど、こういう店に吸い込まれる。
注文したのは、ネギチャーシューメンと半チャーハン。
健康を気にしている人間の頼み方ではない。
だが、「今日は汗かいたから」で全部説明がつく。
便利すぎる。
ラーメンが来るまでぼんやりしていると、隣の席に夫婦らしき二人組が座った。
40代後半くらいだろうか。
旦那はかなり食欲旺盛そうなタイプで、替え玉まで頼んでいる。
対して奥さんのほうは、どこか慣れた感じで旦那を見ていた。
そして案の定、旦那がレンゲでスープを飲み始めた瞬間に言った。
「また全部飲むの?」
少し呆れたような口調だった。
旦那は「いや、今日暑かったから」と笑っている。
その瞬間、自分は心の中で「わかる」と頷いてしまった。
やはり“汗をかいたから塩分補給理論”は、全国共通なのだ。
だが奥さんは容赦ない。
「そんな毎回汗かいてないでしょ」
正論である。
正論すぎて痛い。
こちらまでダメージを受ける。
旦那は苦笑いしながら、それでもスープを飲んでいた。
その様子を見て、自分は最初、「口うるさいなあ」と思った。
ラーメンくらい好きに食べればいいじゃないか、と。
だが二人のやり取りを聞いているうちに、少し気持ちが変わった。
あれは単なる小言ではないのだ。
たぶん、健康を気にしている。
血圧とか、健康診断とか、そういう現実を知っているから出る言葉なのだと思う。
長年一緒に暮らしている人間特有の、“心配込みの注意”という感じだった。
しかも旦那のほうも、本気で嫌がっているわけではなさそうだった。
「はいはい」と流しながら、どこか安心しているようにも見える。
そういう空気を見ていたら、なんだか妙に羨ましくなった。
自分なんか、誰にも止められない。
替え玉をしようが、チャーハンを追加しようが、スープを飲み干そうが、完全に自由だ。
そして自由というのは、時々危険でもある。
実際、その日の自分はかなり暴走していた。
半チャーハンのはずが、途中で足りなくなって餃子まで追加した。
完全に疲労と食欲に支配されている。
しかも最後には、当然のようにスープまで完飲した。
「今日は塩分補給だから」
そう自分に言い聞かせながら。
だが、店を出てしばらく歩いた頃には、胃がかなり重かった。
毎回同じことを繰り返している気がする。
そして帰宅後、部屋に入った瞬間、急に静けさが気になった。
一人暮らしなので当たり前なのだが、その日は妙に静かだった。
店ではあの夫婦の会話を「ちょっとうるさいな」と思っていたはずなのに、家に帰ると逆にその空気を思い出す。
「また全部飲んでる!」
「塩分取りすぎ!」
ああいう何気ないやり取りが、妙に頭に残っている。
冷蔵庫を開けても誰もいない。
テレビをつけても、部屋の空気は静かなままだ。
その時ふと思った。
「スープ残しなよ」って言われる日常も、案外悪くないのかもしれない。
もちろん、毎回管理されたら面倒だとは思う。
だが、誰かが自分の健康を細かく気にしてくれる生活というのは、たぶん想像しているより温かい。
少なくとも、“好き勝手食べてあとで一人で胃もたれする生活”よりは健康的な気がする。
とはいえ、自分の性格を考えると、たぶん注意されても結局飲む。
「今日は現場暑かったから」
「今日は特別だから」
「明日から気をつけるから」
そんな言い訳を並べながら、最後の一口までいく気がする。
ただ最近は、その“止めてくれる人がいる生活”を少しだけ想像するようになった。
40代になると、健康の話が急に現実味を帯びる。
ラーメン一杯にしても、若い頃みたいに勢いだけでは食べられない。
それでもやっぱり、疲れた日のラーメンはやめられない。
だからせめて、少し歩くとか、黒烏龍茶を飲むとか、小さな抵抗だけは続けている。
まあ、そのあと普通にスープを完飲していたら意味があるのかは怪しいけれど。