今日も須江のあたりを散策しました。

歴史好きなので話は長くなります・・・ゲームソフト戦国無双3のステージにもなっているのですが
天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥州仕置で葛西大崎一揆というものが起きました。


葛西氏・大崎氏は、ともに陸奥国中部(宮城県北部~岩手県南部)の戦国大名だったのですが、小田原に参陣しなかった事を理由に豊臣秀吉に領地を没収され、旧領には豊臣氏家臣、木村吉清と子の清久が封じられました。


木村親子は早速刀狩と太閤検地をはじめ領国経営を開始したが、その手法は旧葛西・大崎家臣団らの強い反発を買うもので、その年の10月には一揆が起きた。


木村吉清父子は佐沼城に逃げ込み、蒲生氏郷と伊達政宗は豊臣秀吉からこれを救出するように命じられるが、ここで伊達政宗が一揆勢と通じているという情報が秀吉にもたらされる。。


天正19年(1591)、伊達勢は疑いを晴らすため全力で一揆勢の鎮圧を始め、最後まで抵抗を続けた佐沼城の一揆勢2500人は撫で斬りにされた。


残党狩りも熾烈で、須江山の糠塚では多数の一揆物頭衆が謀殺された。これで葛西氏・大崎氏は滅亡する。 

殿入沢は葛西氏の首領たちが自害したところと言われ、細田山碑は、葛西氏残党に討たれた木村重景の墓と伝えられている。


殿入沢跡


ウィキペディアによると、『政宗が一揆に書状を送るなどして煽動したという疑惑については、政宗の関与を否定するむきも有るが(氏郷の策略・須田伯耆の誣告・一揆衆による宣伝工作等)、政宗自身が一揆を煽動していたとの見解が最有力である。奥州仕置で惣無事令後に獲得した会津ほか8郡を没収された政宗が、失地回復の手段として、一揆を起こさせて新領主の木村を失脚させ、一揆鎮圧の功績を以て葛西・大崎旧領を獲得しようと企んだ、というのが大体の筋書きで、須江山における一揆謀殺も、証拠湮滅のために行われたと見られている。

秀吉もまた、政宗の申し開きを表向きは認めたものの、明らかに懲罰と見受けられる措置をとっていることから、政宗の煽動が一揆発生の原因と判断したと考えられる。』とある。

史跡巡りをしているわけではないのですが(笑)、他にも須江のあたりにはいろいろありました。


今朝は蛇田でご挨拶させていただきました。