気づいたら、一週間もブログを見ない日々が続きました。

 

それだけインプットに集中していたとも言えますが、同時にアウトプットも忘れてはいけませんね。

 

こんにちは!!!!

 

 

本の内容:

 

1. 解決すべきは「いかに他者と一体化するか」という問題

 

どの時代のどの社会においても、人間同じ一つの問題の解決に迫られている。いかに孤立を克服するか、いかに合一を達成するか、いかに個人的な生活を超越して他者との一体化を得るか、という問題である。

 

独裁体制は人びとを集団に同調させるために威嚇と脅迫を用い、民主的な国家は暗示と宣伝を用いる。

 

民主主義においては、集団に同調しないことも可能であり、実際、同調しない人が全くいないわけではない。

(中略)

しかし、こうしたちがいにも関わらず、民主主義においても、ほとんどすべての人が集団に同調している。

なぜかというと、いかにして合一感を得るかという問いには、どうしてもなんらかの答えが必要なのであり、ほかにいい方法がないとなると、集団への同調による合一がいちばん良いということになるのだ。

(中略)

たいていの人は、集団に同調したいという自分の欲求に気づいてすらいない。

 

マゾヒスティックな人がサディスティックな人に依存しているのに劣らず、サディスティックな人も服従する人物に依存している。

(中略)

表面的にはかなりちがうが、より深い感情面では、両者の相違点は共通点よりも小さい。その共通点とは、完全性に到達しない融合という点である。

 

 

2. 愛とは「みずから踏み込む」もの

 

 

能動的感情を行使するとき、人は自由であり、自分の感情の主人であるが、受動的な感情を行使するときには、人は駆り立てられ、自分では気づいていない動機の僕である。

(中略)

羨望、嫉妬、野心、貪欲などは情熱である。それにたいして愛は行動であり、人間的な力の実践であって、自由でなければ実践できず、強制の結果としては決して実践され得ない。

 

愛は能動的活動であり、受動的感情ではない。そのなかに「落ちる」ものではなく、「みずから踏みこむ」ものである。

 

尊重とは、その語源からも分かるように、人間のありのままの姿をみて、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである。したがって尊重には、人を利用するという意味はまったくない。尊重とは、他人がその人らしく成長発展してゆくように気づかうことである。

 

自分自身を、そして他の人間を知りたいという渇望は、「汝自身を知れ」というデルフォイの神託に表現されている。これこそが全ての心理学の根本的な動機である。しかしこの欲求は、人の全てを知りたい、人間のいちばん奥にある秘密を知りたいという欲求であるから、ふつうの知、すなわち思考だけによる知では決して満たされない。

(中略)

完全に知るための唯一の方法は愛の行為である。この行為は思考を、そして言葉を、超越する。

 

 

3. 愛の対象

 

幼稚な愛は、「愛されているから愛する」という原則にしたがう。成熟した愛は、「愛するから愛される」という原則にしたがう。未成熟の愛は「あなたが必要だから、あなたを愛する」と言い、成熟した愛は「あなたを愛しているから、あなたが必要だ」と言う。

 

愛とは、特定の人間に対する関係ではない。愛の一つの「対象」にたいしてではなく、世界全体にたいして人がどう関わるかを決定する態度、性格の方向性の事である。もし一人の他人だけしか愛さず、他の同胞には無関心だとしたら、それは愛ではなく、共生的愛着、あるいは自己中心的主義が拡大されたものに過ぎない。

 

ところがほとんどの人は、愛を成り立たせるのは対象であって能力ではないと思い込んでいる。それどころか、誰もが、「愛する」人以外は誰も愛さないことが愛の強さの証拠だと信じている。

(中略)

この態度はちょうど、絵を描きたいと思っているくせに、絵を描く技術を習おうともせず、正しい対象が見つかるまで待っていればいいのだ、ひとたび見つかればみごとに描いてやる、と言い張るようなものだ。一人の人をほんとうに愛するとは、すべての人を愛することであり、世界を愛し、生命を愛することである。誰かに「あなたを愛している」と言うことができるなら、「あなたを通して、すべての人を、世界を、私自身を愛している」と言えるはずだ。

 

 

4. 異性愛

 

異性愛には、もしそれが愛と呼べるものなら、一つの前提がある。すなわち、自分という存在の本質から愛し、相手の本質と関わりあうということである。

(中略)

私たちは「一者」なのだ。だとしたら、誰を愛するかなど全く問題ではないはずだ。

 

誰かを愛するというのはたんなる激しい感情ではない。それは決意であり、決断であり、約束である。

(中略)

もし自分の行為が決意と決断に基づいていなかったら、私の愛は永遠だなどと、どうして言い切ることができよう。

 

従って、異性愛とはひとえに個人と個人が引きつけ合うことであり、特定の人間どうしの独特のものであるという見解も正しいし、異性愛は意志の行為に他ならないという見解も正しい。いや、もっと正確に言えば、どちらも正しくない。それゆえ、異性愛はうまくいかなければ簡単に解消できるという考え方も、どんなことがあっても関係を解消してはならないという考え方も、間違っているのである。

 

利己主義と自己愛とは、同じどころか、全く正反対である。利己的な人は、自分を愛しすぎるのではなく、愛さなすぎるのである。

(中略)

自分自身をあまりに愛しすぎているように見えるが、実際には、真の自己を愛せず、それをなんとか埋め合わせ、ごまかそうとしているのである。

 

 

5. 神への愛

 

逆説論理学の教師はこう教えるー人は矛盾においてしか知覚できず、最高の唯一の実在である神を思考によって知ることはできない、と。

(中略)

神への愛とは、思考によって神を知ることでも、神への愛について考えることでもなく、神との一体感を経験する行為である。

 

神への愛と人間に対する愛とは似通っているということである。さらに、神への愛や人間への愛のほんとうの性質に、当の本人は気づいていないことが多い。愛とは何かについての、より成熟した考えを持つことによって、愛のほんとうの性質を覆い隠し、合理化しているのだ。

 

さらにいえば、他人に対する愛は、直接には家族関係に根ざしているが、結局は、その人が生きている社会の構造によって決定される。目に見える権威であれ、市場とか世論といった目に見えない権威であれ、社会の構造が、権威へ服従を強いるようなものだと、人が抱く神の観念は、幼児的なものになってしまう。

 

 

6. 愛は挑戦であり、技術

 

人はふつう、どんなことがあっても苦しみや悲しみは避けるべきだと信じているが、ちょうどそれと同じように、愛があれば対立は起きないと信じている。

(中略)

なぜ双方に好ましくない結果しかもたらさないかと言えば、ほとんどの人の「対立」が実は、真の対立を避けようとする企てに過ぎないからである。

 

二人の人間が自分たちの存在の中心と中心で感じ合うとき、すなわちそれぞれが自分の中心において自分自身を経験するとき、はじめて愛が生まれる。

(中略)

そうした経験にもとづく愛は、たえまない挑戦である。それは安らぎの場ではなく、活動であり、成長であり、共同作業である。

 

どんな技術であれ、それに熟達したかったら、自分の全生活をそれに捧げなければならない。

(中略)

愛するという技術に関していえば、こういう事になる-この技術に熟達したいと思ったら、まず、生活のあらゆる場面において規律と集中力と忍耐の習練を積まなければならない。

 

 

7. 一人きりでいる技術

 

実際、集中できるということは一人きりでいられるという事であり、一人でいられるようになるという事は、愛することができるようになるための一つの必須条件である。

(中略)

逆説的ではあるが、一人でいられる能力こそが、愛する能力の前提条件なのだ。

 

集中するとは、いまここで、全身で現在を生きることである。いま何かをやっているあいだは、次にやることは考えない。いうまでもなく、いちばん集中力を身につけなければならないのは、愛しあっている者たちだ。ふつう、二人はさまざまな方法でたがいから逃げようとするが、そうではなく、しっかりとそばにいることを学ばなければならない。

 

人は自分自身にたいして敏感になる事ができる。たとえば、疲れを感じたり、気分が滅入ったりしたら、それに屈したり、つい陥りがちな後ろ向きの考えにとらわれてそうした気分を助長したりしないで、「何が起きたんだろう」と自問するのだ。どうして私は気分が滅入るのだろうか、と。同じように、なんとなくいらいらしたり、腹が立ったり、また白昼夢にふけるとか、その他の逃避的な活動にふけったりしたときも、それに気づいたら、自問するのだ。

 

 

8. 愛の本質は、理性の獲得

 

愛の本質について先に述べたことに従えば、愛を達成するための基本条件は、ナルシシズムの克服である。ナルシシズム傾向のつよい人は、自分の内に存在するものだけを現実として経験する。外界の現象はそれ自体では意味を持たず、自分にとって有益か無益かという観点からのみ経験されるのだ。

 

客観的に考える能力、それが理性である。理性の基盤となる感情面の姿勢が謙虚さである。子どものときに抱いていた全知全能の夢から覚め、謙虚さを身につけたときにはじめて、自分の理性を働かせることができ、客観的にものを見ることができるようになる。

 

人を愛するためには、ある程度ナルシシズムから抜け出ていることが必要であるから、謙虚さと客観性を育てなければいけない。

(中略)

他人とその行動について自分が抱いているイメージ、すなわちナルシシズムによって歪められたイメージと、こちらの関心や要求や恐怖にかかわりなく存在している、その他人のありのままの姿とを、区別できるようにならなければならない。

 

 

9. 愛にたいする「信念」

 

自分自身を「信じている」者だけが、他人にたいして誠実になれる。なぜなら、自分に信念を持っている者だけが、「自分は将来も現在も同じだろう、したがって自分が予想しているとおりに感じ、行動するだろう」という確信を持てるからだ。

(中略)

愛に関して言えば、重要なのは自分自身の愛にたいする信念である。つまり、自分の愛は信頼に値するものであり、他人の中に愛を生むことができる、と「信じる」ことである。

 

教育とは、子供がその可能性を実現してゆくのを助けることである。教育の反対が洗脳である。

 

理にかなった信念の根底にあるのは生産性である。信念にしたがって生きるということは、生産的に生きることなのだ。したがって、他人を支配するという意味での力、すなわち権力を信じたり、権力を用いたりすることは、信念とは正反対のことである。

 

 

10. 愛する勇気

 

愛されるには、そして愛するには、勇気が必要だ。ある価値を、これがいちばん大事なものだと判断し、思い切ってジャンプし、その価値にすべてを賭ける勇気である。

 

人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは、無意識のなかで、愛することを恐れているのだ。

 

退屈したり退屈させたりしないことは、人を愛するための大きな条件の一つなのである。

(中略)

愛情面では生産的だが、他のすべての面では非生産的だ、といったふうに生活を分割できると思ったら大間違いだ。生産性はそのような分業を許さない。

 

人を愛することができるためには、人間はその最高の位置に立たなければならない。人間が経済という機械に奉仕するのではなく、経済機械が人間に奉仕しなければならない。人を愛するという社会的な本性と、社会的生活とが、分離するのではなく、一体化するような、そんな社会をつくりあげなければならない。

 

 

 

感想:

この本は、オタクの誰かが読んでいるのを見て、興味を持って読み始めた本です。

 

研究や就職に伴う中断も含めて足掛け2年、ようやく読み終わることができました。

 

 

 

僕は決して恋愛経験が多いわけではありません。

しかし、そんな僕の少ない恋愛経験の中でも重要だと感じた部分を、見事に言語化している本であると感じました。

 

 

 

それにこの本に書かれていることは決して恋愛だけに求められることではありません。

 

仕事、家族、友人、趣味、そしてオタク。

人間活動のほぼ全ては人間関係がであると考えるなら、愛する技術は場面において求められると思います。

 

 

 

 

一番大事なのは、「人を好きになることは技術である」と認めることです。

 

この本では、「愛とは落ちるものでなく、みずから踏みこむもの」と言われています。

 

好意・愛情といったものは、行動に起こして初めて意味をもちます。

 

これは人間関係において、直接会いに行くことが重要視されるのと同じです。

 

 

これをオタクとしての振る舞いに活かすのであれば、「推しにはお金と時間を使え」ということです。

 

推しのことについて悶々と考えているよりも、

  • 推しについてツイートする
  • 推しが出演している番組・ラジオをチェックする
  • お手紙を書く
  • ライブや特典会で会いに行く

といった行動に移すべきであるということです。

 

少し冷たい言い方になりますが、いくら「好きだ」と思っていても、それが行動に現れないなら、自分の愛はその程度だということです。

 

 

 

 

もう一つ大事なことがあります。

 

それは、「見返りを求めず、自分を信じる」ということです。

 

本の中ではこれを「信念」、つまり、「自分の愛は信頼に値するものであり、他人の中に愛を生むことができる、と『信じる』こと」と語られています。

 

愛すると決めることには、覚悟が必要です。しかし、「愛し続ける」ことには精神力と忍耐、そして信念が必要なのです。

 

 

 

これをオタクに転用すれば、「推し続けるには勇気がいる」ということになります。

 

推しに「好き」と伝えることは、簡単です。

認知を貰うことも、お金と時間をつぎこめば決して難しくはありません。

 

しかし、

「◯◯ちゃんにとっては、自分より他のオタクの方が大事なのかも知れない...」

「自分がいなくなっても、◯◯ちゃんは大したことないんだろうな...」

という思いから、オタクに推すことをやめてしまいます。

 

そんなオタクに必要なのは「推す勇気」です。

自分の「好き」が推しには届いていて、それが彼女の生きるチカラになっていると、何の根拠もなく信じることが必要なのです。

 

ただし、「◯◯ちゃんだけ」とならないことも重要だと思います。

推しを通じて、そのグループを、アイドルという存在を、そして自分自身を愛することができるか、ということが重要です。

だから「推す勇気」を身につけるのには時間がかかります。

 

このためには、オタクとしてだけ、愛を伝える存在ではいけません。

普段の生活から、自分を受容し、周りの人を尊重し、世界を愛することができるようになったほうがいいのではないでしょうか?

 

僕もこれから、じっくりと勇気を育てていきたいと思います。

 

 

 

 

以上、また書きます。