ゴジラ三部作の最終話が封切されたので観て来た。
巷の評判はあまり良くないが、私は良作だと思う。
話の概略は次の通りだ。ゴジラが地球を支配したため人類が宇宙に逃れ放浪した末に、二万年後の地球へ帰還すると、進化したゴジラが生きていた。
帰還した地球人と他の二星人種族(カルト宗教種族と科学信奉種族)が協力してゴジラを倒し地球を取り戻そうとするが、三種族が対立してしまい、ゴジラに勝てない。
そこで、終末論を信仰していた宗教種族がギドラを召喚して地球ごとゴジラを食べさせてしまおうとするが、地球人がゴジラを救い、ゴジラがギドラに勝って、地球を守る…というお話だ。
最後は、科学種族が遺した科学技術を利用しようとする仲間から、その科学技術を主人公が奪ってゴジラに突っ込んで自爆し、人類とゴジラとの果てしない抗争に終止符を打つ…。
この映画では、ゴジラは自然の象徴として描かれている。対するギドラは絶対悪、そして三種族はそれぞれ感情、宗教、科学を象徴していた。
さらに、次の三つの習性で人間は行動していると看破していた。
英雄を祀り上げて集団行動する人類…
ゴジラを憎んで悪者を倒したい快楽…
科学は万能だと信じ犠牲を厭わない…
往々にして、人は善を絶対化して暴走し、憎み恨んで魔女狩りし、過ちを省みること無く同胞の犠牲を強いる。
シナリオライターの虚淵玄は流石だ。
二万年の間、ゴジラが支配する地球で生き残り原始化した人類は、憎みや怨みの概念(クオリア)を失い、怖れや慄きしか持たない設定…。したがって、誰かをディスることはない。同胞に犠牲を強いて敵を破壊することが勝利ではなく、生き残り命を紡ぐことこそが勝つことだと理解する…。
そこには現代の日本人が忘れつつある、諸行無常や輪廻永劫の理解があると私は想う。
こうした象徴の扱い方や人の脳に及ぼす影響を念頭に置くと、現代社会の歪みも見えてくる。
原爆Tシャツ、旭日旗、ナチス軍服、カギ十字のいずれも象徴でしかない。国旗や英雄像や指導者も同様だ。人の脳に浮かぶ象徴と実体は乖離していて、そこには必ず認識のズレが発生し続け、そのズレは拡大しつつ拡散していくことになる…。
こうした日本人の思考パターンと全く違った考え方をアメリカ人はしている…。そのアメリカ人の思考パターンの核心は、弱肉強食とリーダーシップに対する認識の違いだろう。
そんなドラマを観た。ウォーキングデッドだ。
このドラマシリーズは一昔前にアメリカ人の水戸黄門的なテレビドラマだった「スタートレック」とは大違い、トランプ時代の精神構造はこのドラマの様な流れに起因するのではないだろうか?
兎に角、このドラマは殺すか?、殺されるか?に特化している。
そして、その判断不能な境界に切り込んでいて、その境界のカオスでファジーな思考の分岐点で観客を彷徨わせている…。
人間が形成する組織におけるリーダーシップのあり方、状況によって変化し続ける善悪の分岐点、人がつくり出す集団の形態パターン、仲間とは家族とは何か?…、そんなことを考えさせられるドラマだ。
まだ全部は観ていないが、これまで観た中で一番印象的だったのは、ある幼い姉妹の違いだ。
弱肉強食の中で、生き残るために武器の使い方を教わる小学生くらいの姉妹のうちの一人は必要な時には人間をも殺す選択を下すし、もう一人は動物に対してでも殺生を否定する選択を下していた。
この二人に対して、大人たちは当然ながら必要なら殺人を肯定する訳だが、子供達の判断力の未熟さゆえに、目を覆いたくなる悲劇が起こる…というフィクションが描かれていた。
このドラマを観て思うことは、アメリカ人は殺し合うことは必要だと考えているし、今のアメリカの世論は何故かそうなっていて、一昔前の多民族国家の共生的な思考パターンは影を潜めているということだ。
トランプ政権の誕生は当然の帰結だろうし、その極化はこれからも増幅される様な気がしてきた。