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本庄【優はり灸院】からの伝言

埼玉・本庄市での臨床の日々からお伝えしたいこと

鍼灸施術・健康について口答では説明しにくいことなど

知って得するような情報をお伝えいたします♪

読者さまの利益になれば嬉しいです。(*^_^*)

今週は館林のつつじを鑑賞してきました。
 
狐の尾の導きによって縄張りされたといわれる館林城(尾曳城)の城址である「つつじが岡公園」
 
徳川四天王のひとり、榊原康政が任されたのが館林城。どうする家康では杉野遥亮さんが演じた人物です。
 
 
昭和9年に躑躅ヶ岡として国指定名勝でに指定されています。
 


100を超える品種、一万株のツツジが植えられてますよ♪
 
観光協会の方によると、前日位からヤマツツジが見頃になりはじめたようですよ。

クルメツツジは後少しみたい・・
 
 


館林出身の宇宙飛行士・向井千秋さんと関係あるツツジも綺麗に咲いていましたよ♪
 
 


茂林寺の分福茶釜のタヌキは有名ですよね。ここでも出迎えてくれました。
 
 


お辻の出来事を悲しんで、これだけの、ツツジが植えられはじめたそうです。
 
この城沼は守りの沼と言われ、里沼として日本遺産認定を受けています。
 
祈りの茂林寺沼、実りの多々良沼の3つで里沼を構成してます。
 
 


結構、広くて歩きごたえがある公園なので、借りてみるのも良いかも。
 


ソフトクリームはツツジ味です。興味が抑えきれなく購入してしまいました~(笑)
 
先ず、前提として、ツツジの味が解らないので・・( ;∀;)
 
癖のないサッパリした味でした。美味しかったです(*^^*)
 
 

向井千秋記念子ども科学館にも♪ 
 
ここ、行ってみたら、勉強になりましたし、面白かったです(*^^*)
 
館内には群馬県最大のプラネタリウムもありますので、本当にお子様におススメです!
 
 
今年で、館林市は市制施行70周年みたいなので、「こいのぼりの里まつり」も規模が大きいのですかねぇ?

こいのぼりもチャンスがあれば見てみたいなと思ってます♪
 
 
アメブロでは簡単な日記とお薦め情報のみを書いていくことにしました!

 
 
 

 

幸手での権現堂で桜の鑑賞が不満足だったので、先週は都内で再リベンジしてきました。
 

柴又帝釈天・題経寺からの観た桜です。
 
このお寺の彫刻は本当に見事で、絶対に見た方がいいですよ。(*^^*)
 

柴又といえば、思い浮かべるのは、やっぱり、「男はつらいよ」の寅さんですよね♪
 
ドラマでの放送の寅さんの最後では、ハブに噛まれて亡くなってしまうという結末はご存じでしたか?
 
抗議殺到から映画でのシリーズが生まれたそうです・・その数、なんと50作( ;∀;)
 
「粋だとか、イナセってのは今までの自分のことをいうんだよ」などの数々の名言も残してますよね♪
 
 
 

寅さん記念館・山田洋二ミュージアムでは撮影エピソードを知ることができます。
 
桜も咲いていたので、柴又公園から矢切の渡しを挟んだ江戸川の眺めも最高(^^♪
 
なんとなく金八先生のオープニングの風景に近い風景だったので、調べてみたら金八先生の方は押上近くの荒川沿いでした。
 
 
 

第1作から第4作まで撮影でしようされた「とらや」さん。
 
16:30の閉店15分前に入店して、急いで中華丼をいただいてきました。
 
草だんごは売り切れだったので、亀屋さんでサクラ草だんごなどを食べました。名物なだけあって美味しかったです。
 
悩んだ挙句、以前より興味をもっていた、たま屋さんの「シュロたわし」を見送ってしまったことは、今となって唯一の後悔。
 
因みに柴又は都内初の国の重要文化的景観にされていますよ(#^.^#)
 
 

展望台からのスカイツリー
 
異常な数の外国の方々で身動きが取れない感じでした。9割5分くらいの比率だった感じです。
 
ともかく疲れました・・さっさと退去(笑)
 

上野公園・不忍池でボートに乗っての桜鑑賞も良さそうですよね。
 
サクラは、時期的に早いのか遅いのか良く解りませんが、上野公園では全体を通して、緑の部分が結構ありました。
 

寛永寺・不忍池弁天堂と飛び立つ鳥
 
 
今回でアメブロで368回目の記事ですが、今後は区別化して、鍼灸や健康についての詳しい記事はnoteの方に移行して書いて行きたいと思います。
 
アメブロの記事内容は、主に日常や趣味の日記をメインにします。
 
 
 
 
 
今回は、本庄早稲田の杜ミュージアムで購入した本の内容を少しご紹介♪
 

 
江戸時代初期(元禄期)の検地帳類には本庄町と記載があり、後期(享保期)の検地帳類では本庄宿に変化しているのですが、1889年(明治22年)に本庄宿が、また本庄町に変った経緯があります。
 
旧本庄市は1954年(昭和29年)に本庄町・藤田村・仁手村・旭村・北泉村が合併して市制が施行されたものでした。
 
それまでの本庄町は児玉郡に属していまして、その児玉郡は1896年(明治29年)に児玉郡・賀美郡・那珂郡が合わさってできたものです。昔は小島地区は賀美郡、牧西は榛沢郡に属していたそうです。
 
そして現在の本庄市は2006年(平成18年)に旧本庄市と旧児玉町が合併したものとなります。
 
児玉の由来は銀や銅を砕いた小玉、遠峰(やまびこ=こだま)、樹霊・樹神(木の魂)、小さな池から来ている節などもあるようですが、武蔵の国では埼玉(さきたま)・多摩の郡もあり、玉(たま)という意味自体が政治的中心地と関係もあるのではないかと紹介されていました。古い書物では古太万としるされているものもあるようですよ。
 
本庄の名前の由来は平安時代の末期頃に所在した児玉庄という荘園ではないかとのこと。
 
児玉庄の規模や範囲の詳細資料は皆無のような状態で不明な点ばかりですが、多分、児玉庄大夫家弘が開拓主体者で共和地区から本庄市・本泉地区が児玉庄あった場所ではないかとのことです。
 
荘園の規模が広がっていくにつれ、新しい荘園は児玉新庄と呼び、元々の荘園を児玉本庄としたようです。
 
 
本庄という地名が初めてでてくるのは鎌倉時代の後期になります。その時代の本庄は現在の北堀や栗崎付近と考えられています。
 
平安時代末期から鎌倉時代・南北朝時代で活躍した武蔵七党(児玉・丹・横山・猪俣・村山・私市・西・都築・野与)と呼ばれる武士団の一つに児玉党がいました。
 
児玉党の武士の多くは庄・本庄・児玉・蛭川・阿佐美・真下・塩谷・四方田・牧西・薦田などの地名を苗字にしています。丹党・猪俣党は児玉党と隣接してました。
 
児玉党は朝廷に馬を献上する官牧(933年に朱雀院の私牧から棘旨牧に)・秩父牧の一つである神川町の阿久原牧の別当から生じた一族。
 
有氏神社でまつられている有道維行とか、児玉弘行が祖とされます。
 
源平合戦を描いた平家物語、鎌倉幕府が記録した吾妻鏡、太平記などで児玉党一族の活躍が記されています。
 
その時代は、前九年の役・後三年の役、大倉館の戦い、保元の乱・平治の乱、石橋山の合戦、木曾義仲との戦い、一の谷・屋島・壇ノ浦・奥州の合戦、比企氏の乱、畠山重忠誅殺事件、和田義盛の乱、承久の乱、宝治合戦、二月騒動、文永・弘安の役(蒙古襲来)、霜月騒動、鎌倉幕府討伐、建武の新政、南北朝の動乱などの出来事がありました。
 
 
役職や戦いで、児玉党の一族と共に本庄周辺の地名が全国的には広がっていったことが解りますね。。児玉党の活躍が垣間見れます;。
 
 
軍配団扇紋は児玉党の家紋のシンボルです。
 
少なくとも鎌倉時代初期から旗印として用いられていたようですよ。
 
 児玉党の菩提寺は児玉の浅見山にあった西光寺でしたが、延元2年(1337年)の薊山合戦で焼失してしまいましたが、栗崎で宥勝寺として再興したようです。
 
 共和地区は九郷用水(八幡山の青柳・八日市の黄田・真下・蛭川・今井・富田・浅見・高関の四方田・北堀の9つの郷への水流)には22か所の金鑚神社の分霊社が祀られていたようです。
 
金鑚神社は児玉党一族の共通信仰対象だったそうです。
 
金鑚神社は、奈良の大神神社・長野の諏訪大社と並び、日本で3つだけの本殿をもたずに、山そのものを信仰対象としている古い信仰の仕方です。
 
金佐奈と書くとこもありますが、金鑚神社の鑚はキルと読みますが、神川町の丹生という駅名から、錬金術とも関連するのかなと個人的に想像してしまいます・・
 
江戸時代後期に幕府によって編纂された「新編武蔵風土記稿」では、領名で本庄領・鉢形領・八幡山領・安保領、庄名で若泉庄・蛭川庄・松久庄が、郷として雉岡郷・今井郷・青柳郷・河内郷・太駄郷・九郷・大寄郷・滝瀬郷・中沢郷が地名として記されいるようです。
 
江戸時代には年貢徴収のための検地帳が作成され、小名という細かな地名が沢山誕生しました。明治時代に入り、地租改正がおこなわれると小字という形の地名で整備が行われた歴史があります。
 
失われたり、誕生した地名があり変化してきました。
 
 
鍼灸院のある下野堂の小字の地名です。
 
下に堂があったからという記載の古文書があるそうですが、下の意味は不明なままのよう。
 
併して、信玄公が帰依した聖天尊躰がご神体と伝わる、堂場に鎮座する二柱神社の由緒で四門造ノ堂を建てたらしく、四門堂聖天と呼ばれたのが下野堂の語源という書物での記載もあるそうです。発音はシモンドウと呼ばれていたと思われているようです。
 
開拓の地には埴輪や土器が出土している二子塚古墳は昭和30年前半まだ墳丘が残っていたそうですよ。もしかしたら鍼灸院は古墳があった場所なのかと動揺してしまいましたが、調べてみると今の高橋ソースさんの工場辺りみたいです。
 
この辺りは、杉山や小島を含め地名の飛び地が見られるのが特徴です。
 
他にも、2冊の本から、共栄に太平洋戦争中に陸軍の飛行場があったことや、見福が昔は犬伏と記載されていたり、久々宇が白鳥の古い呼び名であるククヒ(くぐい・鵠)が由来であること、旭村が連合と呼ばれていたことなど、多くを知ることができました。
 
児玉党一族が苗字として名乗った本庄周辺の地名。
活躍して、その地名が全国的にひろがっていったこと!
 
本庄周辺の方々には地名に敬意と誇りをもって過ごしてもらえたらなと思います(^^♪
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
今年は桜の開花が遅いですね。

3日に権現堂に出向いたのですが··💦

駐車場料金1000円を払ったのに、桜の開花状態はこんな状態でした🤣

平日にも関わらず、外国人の方を含め、多くの方が桜観賞を楽しんでいる様子でした。

写真投稿は、初の消しゴムマジック! 便利なツールですね(*^^*)

ドラエモンの絵ではありませんが、どこでもドアみたいなものが設置してありました。

菜の花はキレイに咲いてましたよ~

多くのお店が出店しいているなか、初めて購入してみたのが、「はしまき」(^o^)

お好み焼きを箸に包んだ感じの食べものでした。


雨が強く降ってきたので、その後は、前から行ってみたいなと思っていた、栃木県真岡市にある大前(おおさき)神社に行ってみました♪

日本一の恵比寿さまがいる神社です!

ここでの神様の御使いは鯛とされてます。(^o^)

有料ですが、御本殿、拝殿、幣殿の国の重要文化財も観ることができましたよ。


偶然にも、一粒万倍日でした。

本当に、行ってみて良かったです♪



権現堂に行きがてら、ラーメンショップ122号騎西店で朝ラーメンを食べて来ました。

修業時代にすぐ近くに住んでいて、何回か食べたことはあったのですが、、

今やラーメンショップの中でカリスマ店になってしまいました(^o^)

懐かしかったです。

修業時代を思い出したので、まだまだ頑張って行きたいと思います😁




現在でも言いますが、3月は旧暦では弥生と呼びますよね。
 
もとは「いやおい」と読まれていましたが、「やよい」に変化していったようです。
 
暦としての弥生は、「いよいよ、益々程度が進むこと」を表し、生い茂っていく意味があるそうです♪
 
 
先週、本庄早稲田の社ミュージアムで開催中のイベント・弥生時代の児玉・深谷地域での土器や埴輪を観てきました。
 

 

土器や時代としての、弥生という名前の由来は、明治17年に東京都文京区弥生の貝塚から発見された1個の壺がきっかけで、縄文や古墳時代の土器とも違う特徴から弥生式土器と呼ばれるようになったそうです。

 

 

弥生式土器の種類には穀物貯蔵用の壺、煮炊き調理用の甕(かめ)、食べ物の盛り付け用の高杯・鉢があります。

 

弥生時代は水田稲作と農耕技術と共に、青銅器や鉄器の作成技術が生まれました。

 

銅鐸・銅剣・銅鏡などの祭祀道具は銅とすずを合わせて造られたそう。

 

 
下の階でも、縄文土器や埴輪を展示していました。
 
入館すると埼玉縄文カードが貰えます。
 
 
1階も2階も、結構、観素晴らしい土器や埴輪が展示されてますよ!
 
欲を言えば、縄文時代の土偶が発見されればいいのになとは思ってます♪ 
 
そして、今。人気らしい・・ですよ♪
 
置物のマンホールグッツは色彩が綺麗だったので、後で購入して治療院に飾ってみたいなぁと思ってます!
 
とりあえずは、お決まりのクリアファイル(笑)
 
 昨日は昼休みに、、
 
深谷の榛沢にある榛の森公園の河津桜を観てきました。丁度の見ごろ感でした。
 
ここは、調べてないので解りませんが、なんとなく古墳なのかぁ~と思いながらの散歩(=゚ω゚)ノ
 
そして、前から気になっていた、榛の森公園に隣接する、「武蔵野うどん やま一」さんへ。
 
田舎うどんを注文。川幅うどんのような麺が乗っかってましたよ。天麩羅はネギの天麩羅です。
 
次回は、五月からの提供らしい、すったてうどんを食べに行きたいと思ってます。
 
営業は金・土・日だけみたいなので気を付けて下さいね♪