こんにちはマカロン


5月に嵐山へ行きました。

天龍寺や竹林を歩きボートに乗ってきました。

新緑が美しかったです。



今日で乳がん手術後2日目です。

ビデオを見てのリハビリ体操が始まりました。

術後、管を入れていた喉の違和感と

胸の傷の痛みがありましたが

徐々にマシになり、

案外回復が早くゆったりと時間があるので

これを機に私と母について振り返りながら書いてみようと思います。




    

乳がん告知日は母の命日
①絶望編



幼い頃、私は母が好きでした。

優しくて頭が良く

PTA会長をするタイプの女性でした。

かと思えば家の鍵を車のボンネットにのせたまま運転する様な少しおっちょこちょいなところもあり、

炭酸やインスタントは絶対子供に食べさせないという信念を持つ様な人でした。

170センチ近い長身で細身の母は

何を着ても綺麗に見えました。


そんな母は30代で乳がんになり、

再発転移を繰り返し、

私が20歳の時に、6年間の闘病の末

亡くなりました。


当時はサブタイプもなく

手術、放射線、抗がん剤治療というフルコースをほとんどの方がされていたように思います。


母の最初の主治医は質問しようとすると

「僕の患者は君だけじゃないから」と言う人で、私はこのおじさんが嫌いでした。

おじさんにへこへことご機嫌取りをしているのを見て、転院したらいいのにと思っていました。

その後転院が決まり、もうあの病院には行きたくないと言う母のかわりに当時中学生の私がデータをもらいに行きましたが、受付の方に投げる様にカルテを渡された記憶があります。


母は初期治療で部分切除をした後、

5年以内再発率95パーセント以下のところ

5パーセントの方を引き当ててしまいました。その時の落胆ぶりは今でも昨日の様です。


でも最後まで一度も、もうダメとは言わない人でした。

言霊を信じていたのか、

自分を信じていたのか、

当時の私には理解できませんでしたが、

もう本当にしんどい時も

絶対治るから、お母さん死なないから

と言っていました。


血縁にがん患者のいない中若くして自分一人病気になった無念、

姑や夫や実親、周りからの無理解と無配慮、

幸せになれるはずだった自分の人生への執着、

細く美しかった容姿の変化、

寄り添ってもらえない医療、

日に日に増す痛み、

迫ってくる死の恐怖、

ヴォルデモートのような

誰にも言えないガンという病気。


思い出すのは

肉体と共に精神的に参っていくにつれ、

ヒステリックに攻撃的になり

あらゆる人間関係を破壊していった母の姿です。


当時はわかりませんでしたが、今で言うところの毒親にあたると思います。

特に第一子である私に当たりが強く、エスカレートする母の暴力による怪我が骨まで達し救急病院行きになった事もありました。


4人兄弟の長女だった私は母のかわりに

中学生から料理、掃除、洗濯を1人でやらないといけませんでした。

これも今で言うところのヤングケアラーですね。

制服でスーパーへ行き、二層式の洗濯機をまわし、6人分の食器を洗う孤独な私がいました。

仕事人間の父、2歳違いの弟はじめ3人の弟妹、皆で分担したいと言っても

親が黒と言ったら白くても黒!と言われるばかりで理由もわからず要望は聞いてもらえませんでした。


それでも母の事を嫌いになることはできませんでした。病気で可哀想だから仕方ない、今は大変だけどいつか私を見てくれると思っていました。


結局子供に思いを馳せることも、自らの人生の振り返りをする事も無く、

管に繋がれたまま、絶望の中45歳で亡くなりました。


それから家族の中では

母や乳ガンの話はタブーになりました。

初期治療で全摘していたら助かったかも、

あの精神状態の母にどう接すればよかったのだろう、

正直母がしんどかった、

亡くなった後も続く悩みと苦しみ。


母が爆発的な怒りと共に、

私が亡くなった後でもいいから絶対に出してほしいと用意した両親の離婚届。

それは死別による不受理のまま、

死後しばらく経って父はストレス性の顔面麻痺になりました。


つらくて悲しい思い出にはフタをして

普通の家庭で生まれ育った様な顔をして

私は実家を出て結婚し出産し、

44歳で乳がんになりました。


健康診断の二次精査の日

突然受けた乳がん告知

でも

何で私がガンに?

何が悪かったの?

とはなりませんでした。

嫌でつらくて苦しいのに

、、、やっぱり、、、でしょうに

という納得の様な不思議な気持ちがありました。


病院を出てすぐ家族に電話しました。

帰宅後子供達にも話しました。

これから母の様な闘病生活を送る事になる、

これは隠しきれないと思いました。

私の命に関わる事だから知っていて欲しいとも思いました。

みんなで泣きながら

今後について話合いました。


遺伝なんだ、、

仕方ないんだ、、

運命なんだ、、

という気持ちと


嫌!

絶対耐えられない!

母の様になりたくない!

という気持ち。


父は泣きながら「もう一度繰り返してる様だ」と言いました。

私の病状、年齢、ライフステージ、

全てが母とよく似た状況でした。

娘のロールモデルは母、同性の身近な人生の先輩です。



絶望でした。






暗くて長い話ですが、

お読みいただきありがとうございました。

いいねもありがとうございます!


入院中、何回かに分けて

絶望の告知から2ヶ月半の間に起こった

私の心の内を書き残したいと思います。



         ぽってりフラワー