今日は、ちょっとした用事で京都まで。
午前中に用事は終わる予定。
ならば、京都を素通りして帰るなどできませぬ。
山科からの帰り道、方向的にどこへいくべしか...。
そうそう、来週には節分祭。
節分間近の睦月の終わりに、お祭り前の雰囲気も感じたくて
今日のご朱印巡りは吉田神社に決めました!
吉田神社の節分祭は京都でも有名です。
境内にたくさんの露店が連ね、全国から参拝客が訪れるほどです。
昨年、亡くなった京都人の義父もこの節分祭が大好きでした。
グルメの義父も満足して喜ぶ露店が色々あったようです。

京大正門前の鳥居です。
節分祭の行事案内が書かれていました。

この石段の手前に手水舎があります。
※上にはありません。
御祭神は、建御雷命(たけみかづちのミコト)、伊波比主命(いはいぬしのミコト)、
天之子八根命(あめのこやねのミコト)、比売神(ひめがみ)
建御雷命と伊波比主命は、古事記の出雲の国譲りにおいて、大功をたてられた神々。
天之子八根命は、天照大神が天の岩戸にお隠れになった際、その大任を果たされた神。
比売神は、天之子八根命の妃神。
天之子八根命(あめのこやねのミコト)は、中臣連(なかとみのむらじ)の祖です。
中臣鎌足(なかとみのかまたり)が「藤原」の姓が与えられ藤原氏になります。
吉田神社は859年、藤原山蔭(ふじわらのやまかげ)が平安京の鎮守神として
吉田山に創建されました。
吉田山は、神代より神霊の宿る場所として崇められ、幸福を勝ち取る神として
厄除開運、家内安全、方除などで人々の厚い信仰を集めてきました。

本宮です。
境内は節分祭の用意でテントや飾りつけの準備がされていました。
雨よけで本宮の全貌がわかりにくいですね(-_-;)

社務所です。
吉田神社の末社「斎場所大元宮」(だいげんぐう)は、吉田兼俱(よしだかねとも)が
吉田神道の根本殿堂として造営。
この大元宮を中心として吉田家の学問を発展させ、吉田神道を樹立。
一族には学者、文人が多く輩出されており、徒然草の吉田兼好は特に有名です。

大元宮は、平面八角形に、六角形の後房(こうぼう)を付した珍しい形です。
この形は、密教・儒教・陰陽道などの様々な宗教や思想を統合しようとした吉田神道の
理想の形を現したもの。
ありとあらゆる神が祀られ、ここを参拝すれば、どこの神社を参拝したも同じとされ、
節分祭には多くの人たちがこの神社を訪れるようになったようです。
にわかに日本の神道がクローズアップされていますが、この考え方は、まさしく
神道の精神を現したものではないでしょうか。
明治の神仏分離までは、神社寺院の区別がなかったことからもいえるよう、
後から入ってきた仏教・儒教を取り入れながら、日本特有の精神性を育んできたのが
神道です。
「日本人は盆・正月には仏教を、クリスマスにはキリストを祝う」と揶揄されますが、
神道が他宗教を認めて受け入れてきたように、本来、日本精神は他文化を取り入れることを
得意としている民族なのかもしれません。
しかし、日本の文化・精神が劣っている自虐的観点から他に目をむけるのではなく、
奥深い日本の魂を知ったうえで、他文化を取り入れて楽しむという根っこは大切です。
地域をつなき、神と人々をつなぐのが「祭り」のテーマ。
そこには、神の違い、思想の違いはあっても、認め合い、融合する。
何教であろうと、どんな思想をもっていてもルールを守れば誰でも参加できる。
神社のお祭りは日本人の大切な行いです。
なぜ「節分祭」といえば、吉田神社なのか。
ただ単に、露店数が多く、賑わうからだと思っていましたが、この大元宮の神殿から
日本人の精神の理想があり、その中で節分祭が盛り立てられてきたと知りました。

午前中に用事は終わる予定。
ならば、京都を素通りして帰るなどできませぬ。
山科からの帰り道、方向的にどこへいくべしか...。
そうそう、来週には節分祭。
節分間近の睦月の終わりに、お祭り前の雰囲気も感じたくて
今日のご朱印巡りは吉田神社に決めました!
吉田神社の節分祭は京都でも有名です。
境内にたくさんの露店が連ね、全国から参拝客が訪れるほどです。
昨年、亡くなった京都人の義父もこの節分祭が大好きでした。
グルメの義父も満足して喜ぶ露店が色々あったようです。

京大正門前の鳥居です。
節分祭の行事案内が書かれていました。

この石段の手前に手水舎があります。
※上にはありません。
御祭神は、建御雷命(たけみかづちのミコト)、伊波比主命(いはいぬしのミコト)、
天之子八根命(あめのこやねのミコト)、比売神(ひめがみ)
建御雷命と伊波比主命は、古事記の出雲の国譲りにおいて、大功をたてられた神々。
天之子八根命は、天照大神が天の岩戸にお隠れになった際、その大任を果たされた神。
比売神は、天之子八根命の妃神。
天之子八根命(あめのこやねのミコト)は、中臣連(なかとみのむらじ)の祖です。
中臣鎌足(なかとみのかまたり)が「藤原」の姓が与えられ藤原氏になります。
吉田神社は859年、藤原山蔭(ふじわらのやまかげ)が平安京の鎮守神として
吉田山に創建されました。
吉田山は、神代より神霊の宿る場所として崇められ、幸福を勝ち取る神として
厄除開運、家内安全、方除などで人々の厚い信仰を集めてきました。

本宮です。
境内は節分祭の用意でテントや飾りつけの準備がされていました。
雨よけで本宮の全貌がわかりにくいですね(-_-;)

社務所です。
吉田神社の末社「斎場所大元宮」(だいげんぐう)は、吉田兼俱(よしだかねとも)が
吉田神道の根本殿堂として造営。
この大元宮を中心として吉田家の学問を発展させ、吉田神道を樹立。
一族には学者、文人が多く輩出されており、徒然草の吉田兼好は特に有名です。

大元宮は、平面八角形に、六角形の後房(こうぼう)を付した珍しい形です。
この形は、密教・儒教・陰陽道などの様々な宗教や思想を統合しようとした吉田神道の
理想の形を現したもの。
ありとあらゆる神が祀られ、ここを参拝すれば、どこの神社を参拝したも同じとされ、
節分祭には多くの人たちがこの神社を訪れるようになったようです。
にわかに日本の神道がクローズアップされていますが、この考え方は、まさしく
神道の精神を現したものではないでしょうか。
明治の神仏分離までは、神社寺院の区別がなかったことからもいえるよう、
後から入ってきた仏教・儒教を取り入れながら、日本特有の精神性を育んできたのが
神道です。
「日本人は盆・正月には仏教を、クリスマスにはキリストを祝う」と揶揄されますが、
神道が他宗教を認めて受け入れてきたように、本来、日本精神は他文化を取り入れることを
得意としている民族なのかもしれません。
しかし、日本の文化・精神が劣っている自虐的観点から他に目をむけるのではなく、
奥深い日本の魂を知ったうえで、他文化を取り入れて楽しむという根っこは大切です。
地域をつなき、神と人々をつなぐのが「祭り」のテーマ。
そこには、神の違い、思想の違いはあっても、認め合い、融合する。
何教であろうと、どんな思想をもっていてもルールを守れば誰でも参加できる。
神社のお祭りは日本人の大切な行いです。
なぜ「節分祭」といえば、吉田神社なのか。
ただ単に、露店数が多く、賑わうからだと思っていましたが、この大元宮の神殿から
日本人の精神の理想があり、その中で節分祭が盛り立てられてきたと知りました。
