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21世紀の国富論レポート

資本主義観

~経済学者とベンチャーキャピタリスト~

課題本:原丈人『21世紀の国富論』平凡社、ロバート・L・ハイルブローナー『世俗の思想家たち』筑摩書房

8606227 藤倉徹勇

掲載:2009年12月23日

<序論>

 今回は紆余曲折の過程の後に課題本として『21世紀の国富論(著者・原丈人)』を輪読することとなり、それに併せこの課題本に関するレポートを作ることと相成った。今までと異なり前回の課題本の読破およびレポート作成から日が経っていないこと、レポート作成にあたり他者から具体的な指示を与えられていないこと、加えて前回の課題本『入門経済思想史 世俗の思想家たち』とも関連付けられる内容であることを考慮して、前回のレポート作成を経て得た知識と資本主義への考察に沿って新たな課題本を読み進めることとした。

 今回の課題本の著者である原氏はベンチャーキャピタリストでありながら米国式の資本主義、マーケットにおける価値こそ全てだとする市場万能主義とそれに伴うマネーゲームに対し否定的、かつ新たな産業を興し世界の仕組みを変えようとすることへの熱意がある。労働やカネ自身が利潤を呼ぶのでもなく革新(イノベーション)が利潤を呼ぶのだとした、前回の課題本に登場した経済学者シュンペーターの意見に大筋近いものを感じた。

<本論>

 原氏はパソコンを主体とする情報産業の頭打ちを見据えつつ、新たなコミュケーション用次世代アーキテクチャであるPUC(パーベイシブ・ユビキタス・コミュニケーションズ)が台頭することを予言している。PUCという概念は原氏のオリジナルであるが、PUCあるいはそれに近いアイディアがパソコン後のコミュニケーションツールを築く動きは確実に生まれつつあると原氏は断言している。大きな特徴として挙げられる点は、従来のクライアントサーバー型ネットワークからネットの構成員全員がクライアントとサーバ双方の役割を果たすピア・トゥ・ピア型のネットワークへの移行である。これはソフト面とハード面が不可分であるためこれがパソコンに取って代わった場合、現在の粗利益の大きいソフトを先進国で、製造に手間が掛かるハードを人件費の安い発展途上国で生産するという製造業の形が維持できなくなる。ここで私が思い出すのは以前学内セミナーで情報ソリューション系企業の担当者が述べた「サービスは技術の土台に成り立っている」「技術とサービスとは両輪」という趣旨の言葉である。より大きな利潤を生むイノベーションは土台を巻き込む形で起こるようである。シュンペーター曰く景気変動には三種類あり極短期間のもの、数年から十年程度のもの、そして蒸気機関や自動車などの画期的な発明に伴う数十年に渡る巨大なものがあるとしている。画期的な発明とは要はコア技術のことである。自動車の誕生と共に自動車自体の改良やそれを活かすための交通網を出現があり、その後に様々なサービスを実現させた。あるいは情報技術の進歩にはコンピュータの高性能化や情報インフラの整備が不可欠だった。ハードとソフトは共にあり、その上にサービスが成り立つのが産業の本来の姿なのだろう。先進国の産業がサービス業主体にシフトするようにハードを捨ててソフトやサービスに特化することは成長期から成熟・衰退期への移行と言える。そこに至れば短期間あるいは数年から十年程度の景気変動はあるが世界を変えるほどの変動は次の発明を待たねばならない。

 だが情報化や国際化、マネーゲームの流行がハードとソフトは急速に分断させてしまった。特に二十世紀まで世界をあらゆる面で牽引してきた米国のような先進国ではソフトやサービスに傾倒し、その二つを成り立たせるのに肝心なハードの技術が失われるという事態が生じている。イノベーションこそが市場システムにおいて利潤を生むという考えに立てば、この状況は前例のない事態である。蒸気機関や航空機など大規模なイノベーションを起こした発明は往々にして「前代未聞なもの」である。そういった前代未聞を生み続けてきた国々からは前代未聞を生み出す能力は失われつつあったのだ。

 そこで原氏の視線はソフトやサービスの基盤となるハードを生み出す能力を失っていない先進国、我が国日本へと向かうのだった。今回の課題本は『21世紀の国富論』の名の通り、日本がこの先の世界でその存在感を強め得る可能性とそのための施策についての原氏の意見である。本論で触れた事柄を基に国内外の企業のあり方や制度を鑑みつつ将来への提言を行っている。

<結論>

 以上、課題本『21世紀の国富論』を読んだ上での私の考えを述べた。

今回に限り前回の課題本を読んでから間がないことと具体的な指示がなかったことが手伝い、私が特に印象を受けた点は現代に生きるベンチャーキャピタリストである原氏が米国流の資本主義を批判しつつ革新(イノベーション)こそが新たな繁栄を生むことを強調していたことだ。彼の批判はカネがカネを生むという概念、さらには数値化された富の指標を盲信することにまで向けられた。私は前回の課題本を通し人それぞれ異なる価値の基準を統一する貨幣経済が資本主義と市場システムの根本であると考えつつ、シュンペーターの主張のうちの「真に利潤を生み出すものはイノベーションである」という点に賛同した。それまでは大学の講義での経済学が私にとって経済学だったため、経済学への印象が変わったのも事実だ。

経済学者であるシュンペーターはその概念のもとで様々な予言を行った。これらの中には当たりも外れもあったが、『世俗の経済学者たち』の中ではこれを経済学的予言ではなく社会的予言であり、シュンペーターの存在がある種の経済学の限界だとまで述べていた。だが実際のところこれは本当のビジネスに接しながら生きる人間が自然と行っていることであり、数値化・定式化できる理論だけでは到底敵わない実践において有用な資本主義観なのだろう。

第5回レポート課題

資本主義のこれまで、これから

~資本主義と経済学に対する私なりのヴィジョン~

課題本:ロバート・L・ハイルブローナー『5世俗の思想家たち』筑摩書房、2001.

8606227 藤倉徹勇

掲載:2009年10月9日

<序論>

課題本P460461に『平和の経済的帰結(早坂忠訳)』の引用でレーニンが資本主義体制打開のための最善の手は貨幣制度を台無しにすることだと宣言したことについて触れられている。

これの宣言は非常に的を射ていると言える。本来ならモノやサービスの価値を決めるのは各々の人が持つ価値観であるはずである。しかし、人類の文明が進歩しモノやサービスを作り出す過程や関与する人間、それらを提供する相手が膨大かつ複雑に絡み合う社会では一定の価値尺度と効率的に交換や蓄積が行える富の形が不可欠である。それを踏まえた上で、やはり人間が感じる価値は常に変動するので需給のギャップや貨幣への信用、あらゆるモノ・サービスの相場は一定でない。これらがある限り常に市場はインフレーションやデフレーションといった問題が発生する可能性をはらむ。

 人類の文明が貨幣を必要としないほどに進歩、あるいは後退しない限り人類は資本主義とそれに伴う弊害とは縁を切ることはできないだろう。

<本論>

 課題本によると社会全体を養い、維持する市場システムとそれに伴う資本主義の概念は13世紀から19世紀にかけて徐々に形成された後、姿を現したという。長きに渡りその役目を果たしていた伝統や慣習から社会情勢の変化によりその座についたというのがこの本の見解だ。

 アダム・スミスは古典派経済学の創始者だという認識が一般的だが彼は哲学者だったそうだ。当時の道徳哲学は今よりも遥かに広く、自然神学や倫理学など様々な学問を含んでいたという。つまりスミスは世の中の真理を求めジェネラリスト的な社会学者として思考し、人々が利潤を求めることや「神の見えざる手」の仕組み、労働が価値を生むなどの結論を導き出したのだ。

その後、経済学において資本主義を語り考える上で利潤の発生源や労働人口の問題、需給の均衡点に手を加えるべきか否か、富の貯蓄や流動といった議論が執り行われてきた。

 最後に課題本はシュンペーターの考えを取り上げている。彼は利潤の発生源は技術や組織の革新(イノベーション)だとした。革新により日常的業務(ルーティーン)が崩され、新たな利潤の発生と投資、先駆者への追従により革新が日常的業務に落ち着くことで熱が冷めるという考えだ。課題本においてそのことはまるで晴天の霹靂のように取り扱われている。だがよくよく考えてみれば、特に我々経営学に関わる人間にしてみれば当然のことである。リーダーとフォロワー、差別化、顧客ニーズ、組織論や人的資源管理などなど我々が企業やモノ・サービスの強み弱みを探る上で用いる概念は労働や資本が利潤を生み出すとする考えよりもシュンペーターの考えに近いのではないか。もっともこの概念は需要と供給、富の蓄積と流動、労働時間で経済を見てきた人々にとっては取っ付きにくいのかも知れない。カネ・モノや消費量・供給量、労働時間といったはっきりと数値化できる物差しを用いてより正確に経済を推測したいと考えるのは当然のことである。だが、我々は仮に労働だけに視点を絞っても、時間と賃金だけでは測れないことを知っている。たとえば労働意欲は賃金の多さに由来するという考え方(科学的管理法)は組織や人材を管理するための概念の中で最も原始的な部類である。人間が何に価値を見出すかは数値だけで測れないのだ。

 革新とは基準にするにはあまりにも曖昧である。シュンペーターは革新が起こる大まかなサイクルをその規模によって大まかに示したが、実際にその通り革新が起こる確約などあろうはずがない。だが、利潤の発生源に新たな視点を加えた意味は非常に大きい。人間が抱く価値の基準自体が社会の変動とともに常に変動する以上、こういった全く別の切り口で資本主義のあり方を、引いては世の中の仕組みを考えることは重要なことだ。

 資本主義、市場システムのパースペクティブを導き出すことはまさしく答えのない社会科学の一大テーマと言えるだろう。

<結論>

 以上、課題本『入門経済思想史 世俗の思想家たち』を読んだ上で資本主義と経済学について考察を行ってきた。 

資本主義はどこへ向かうのか。序論で述べた通り貨幣に頼る市場システムが存続する限りは資本主義と市場システムは継続するだろうというのが私の考えだ。具体的にはどうなるだろうか。

現在の社会を見る限りでは情報化や国際化が進む一方で環境問題や人権問題など(言い方は悪いが)奇麗ごとが今まで以上に強調されている。また日本国内においては第三次産業が産業の中核となったことや市場の成長期から成熟・衰退期に差し掛かったという見方が強い。こうした中で市場においては国や地域ごとに適したマーケティング戦略が重要視され、新技術や知的財産の保護、社会貢献のPR活動など各企業は単純に生産活動に注力すればいいという状況ではなくなった。この点ではシュンペーターの考えた革新が利潤を生むとする資本主義の形がしっくり合うだろう。

一方で巨大なグローバル企業が新たな市場と労働力を求めワールドワイドに活躍する姿を課題本中は新たな帝国主義の姿のようであり、むしろその過程で列国が設けた境界線すら邪魔くさいものに感じるほどであると述べている。

科学技術の進歩やそれに伴う社会と人が感じる価値は常に変化する。その変化の速度は課題本に登場した経済学者たちの頃と比べ、現代では非常に早い。結局のところ明確かつ不変の資本主義観を持つことはできないだろう。だが常に社会を多面的に注視しつつ、最適であろう答えを持っておくことはできる。哲学者アダム・スミスが様々な領域の学問を修めた上で社会を観ることにより、市場システムの答えの一つに至ったことを常に意識するべきだ。

Economyの和訳として用いられる経済とは「経世済民」の略である。世を

治め、人々の苦しみを救うという意味だ。簡単には答えが思い浮かばない、いかにも社会科学的な、哲学的な話である。

第4回レポート課題



『武士道』をKJ法で見る

~書斎科学をKJ法で見る~

課題本1: 川喜田二郎『発想法』中公新書136、1967.
課題本2:新渡戸稲造(著), 岬龍一郎(翻訳)『武士道』PHP研究所、2005.


8606227 藤倉徹勇
掲載:2009年10月7日
提出:2009年10月8日
掲載URL:


<序論>
今回、KJ法という手法の実践の題材に『武士道』が指定された。著者である新渡戸稲造氏は古き日本の精神や道徳心を欧米人に紹介すべくこの作品を記したとされており、『武士道』は国内外を問わずサムライや古き日本人を語る上で不可欠な作品の一つと位置づけられている。当然、『武士道』が世に出た明治時代から現代に至るまでその内容については多くの人々により議論を行われており、現に巻末の訳者による解説にもかなりのページ数が割かれている。つまり、この作品はすでにKJ法考案者である川喜多次郎氏の言うところの「書斎科学」の文献的な存在と言える。
 ある民族の精神構造を体系づけるという行為は社会科学に分類されるだろう。社会科学には明確な答えはないとされ、第三者が納得し得るか客観的な仮説を打ち立てることが目的となってくる。『武士道』に記された内容は、要は新渡戸氏が第三者へ訴えかける仮説である。『武士道』は現在のところ民族の分析という社会科学分野における、「書斎科学」の文献のレベルまで昇華された仮説であると言える。


<本論>
『武士道』の世界を私なりにKJ法で分析を行った結果が「KJ法・『武士道』」である(下記参照)。最初、KJ法の手順に則り、一行見出しを作りグループ化してゆき、図解を作成した。さらに図解から文書を書き起こすにあたり、何度か図解を見直し修正を加えつつ、現在の形に落ち着いた。図解を見た上で、私が感じたことは「各見出し同士の関連が多岐に渡る」ことと「見出しを大グループ化していくに伴い、『武士道』の構成や内容に近づく」ことであった。


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 解説や目次を除けば『武士道』そのものの内容は二百ページ足らずである。本文中には新渡戸氏が読者の理解を助けるために、故事や古い短歌などからの引用、体験談、例示を多用しており、見出と見出しに直接関連する文章の量は更に限られてくる。それでいて「各見出し同士の関連が多岐に渡る」ということは『武士道』の内容がいかに関連のある事項を読者に伝わりやすく凝縮しているかを示しているのではないだろうか。
 また、「見出しを大グループ化していくに伴い、『武士道』の構成に近づく」ことに関しては、ある意味仕方がないことである。今回の課題のテーマは『武士道』に描かれた世界をインタビューあるいは参与観察相当の素材として用いつつ、KJ法を実践することであった。しかし、『武士道』はインタビューと言うより新渡戸氏が自身の仮説を第三者に納得してもらえるよう記した著作である。第三者とは欧米人、そして現在の我々も含まれる。
 失われた過去の事柄を研究し、新たに仮説を導き出すにあたって「野外科学」を実践する際、必要なことは積み重ねられた「書斎科学」の文献と古文書や遺跡、あるいは歴史年表のような事実や物的証拠を組み合わせていくことである。「書斎科学」の文献にあたる『武士道』のみを見て、全く新たな歴史的・文化的な発見や仮説に至ることは難しいだろう。

 
だが、『武士道』を読んでそれにKJ法を用いることは新渡戸氏の仮説の説得力を考察する上で大いに有益だった。
 

先に述べたとおり、『武士道』を読んでKJ法の図解を作成した結果、各見出し同士の関連が多岐に渡った。各見出し同士の関連が多岐になることで、独特の道徳観念とそれに伴う文化や言動への説得力が増す。『武士道』は互いに関連し会う各種のキーワードが凝縮されており、欧米人や現代の日本人にとって実物を知らない武士の文化を理解し納得さるようになっている。
また、見出しを大グループ化していくと『武士道』の構成に近づいた。グループの表題が「孔子と孟子」、「義」、「仁」、「忠義」、「教育」、「女性」と言ったふうに、ちょうど『武士道』の各章のタイトルや更に細かなサブタイトル、あるいは作中で一つの大きなキーワードとして用いられている単語と合致し、更にグループ同士、あるいはグループと見出しとの関連を追っていくと、『武士道』の内容そのものに近づいていくのだ。KJ法を実践する上で、私は「大グループ→小グループ」ではなく「小グループ→大グループ」の整理法を適用し、また先入観を排すために目次や章の各タイトルを出来る限り意識しないよう努め、また巻末の解説を読むのを後回しにした。
新渡戸氏が『武士道』を書いた当時にKJ法の概念は存在しなかった。しかし、この『武士道』を基にKJ法で分析を行うと新渡戸氏が武士道を構成する要素をいかに関連づけて仮説を立て、第三者に理解し納得できるよう『武士道』を構成したかがよくわかる。
 

今回のKJ法を用いた分析により『武士道』は「野外科学」的な発想と手順に基づいて編纂され、第三者が納得し得るという社会科学の仮説に必要な条件を満たした「書斎科学」の文献であることが証明されたのではないだろうか。


<結論>
 以上、KJ法を用いて『武士道』の考察を行ってきた。
 KJ法は新たな発想を生み出すためのツールの一つとされている。一方で、今回行ったように、すでにある仮説に対し用いることで、「どのような発想に基づいているのか」「その発想に説得力があるのか」を分析する手段としても有効なものである。また、社会科学においてすでに一般に「書斎科学」の文献レベルとして用いられる著作や説はたとえKJ法が生まれる以前に確立されたものでも「文章→図形化」が容易であり、それ以前にいかに発想を行ったが理解・納得しやすいようだ。
 KJ法という発想法とは自分の発想を促すだけではなく、他者の発想を理解するために用いても有効であると言える。