90式戦車の新事実①出会い
ただいま絶賛発売中の月刊PANZER4月号に
「29年目の90式戦車の真実」という特集が組まれている。
もう29年かと感慨深い。
そこで、導入時に接する事ができた90式戦車について少し記してみたいと思った。
第一弾は「出会い」である。
情けないかな、はっきりと覚えていない。
しかし、場所は北富士演習場の廠舎(演習場にある簡易宿舎、通称、バラック)で機関銃ベルトを作っていた時だ。
話が逸れるが、この機関銃ベルトは61式戦車に搭載されていた7.62mm機関銃M1919A4(通称、キャリバー30)用だ。
北富士には、徹甲弾射撃で行くことがほとんどであるから機関銃射撃をすることはほぼない。古い備蓄弾薬を射耗(しゃもう:射撃で消費する事)するということで結構な数の割り当てが来たと記憶している。
射場の都合で北富士での射撃となったのだろう。
その古い備蓄弾薬とは米軍から貰ったもののようで弾の入った箱自体が自衛隊のものではなく、英語が書かれた木箱だ。
中を開けて驚いた。入っていた箱に記された文字は「1944」
大戦中の弾薬である。場合によっては先輩に向けられて発射されていたかもしれなかったと感慨深かった。
さらに、中身は2度びっくりである。
5発づつクリップされたM1小銃(M1ガーランドライフル)用の弾薬だった。
どうりで弾薬作業に大勢招集されたわけだ。
車長と操縦手は的設置に出かけ、砲手と装填手が弾薬陸曹の監督下で作業をしていたのだ。クリップから弾を外し5発に1発の割合で曳光弾を入れたベルトリンクを作るという地味な作業だ。弾薬陸曹は装弾器を使い20発の弾薬とリンクを並べ「ガチャコン」とすると20発ベルトリンクが出来る。
弾薬陸曹使用のM3装弾器
我々は1発づつ、リンクに押し込んでひたすら作っていくのfだ。
そんな単調作業をしていた時、先輩が叫んだ。
「おい!新戦車が来たぞ!」
弾薬陸曹も見たかったのか「休憩!」の声がかかる。
廠舎の入り口から新戦車と言われた車両を見る。
サイドスカートを付けた大柄で四角い車体
74式戦車と同様の履帯パターン
砲塔は無く四角い構造物が載っていた。
操縦席が車体中央に確認できたので第1次試作車であったのだろう。
第1次試作車もしくは車体試作車の画像だ
北富士廠舎で私が見た車両と同様だが、上部構造に幌がかかっていたと記憶している。
web上にあった画像だが、履帯パターンが74式と同様の逆ハの字であることが分かるが、よく見るとシングルブロック履帯であることも分かる。
ところが、PANZER誌の40ページの写真では74式戦車と同様(幅は異なると思うが)のダブルブロック履帯なのが確認できる。
「そば行くな」と大隊幕僚からの指示があり、遠巻きにしか見る事ができなかったがサイドスカートとその下に現行10式戦車が採用しているゴム製スカートを付けていたのを鮮明に覚えている。
休憩が終わり、ベルトリンク作り作業に戻ったが、その後見た時には大型トラックで隠されてしまっていた。
記憶があやふやだが、ひどく寒かったのを覚えている。
弾薬を扱うためストーブを付けていなかったが、そもそもストーブを使用する時期ではなかったとも記憶している。
すると、M4A1シャーマン戦車の車体を使ったM32戦車回収車を的にした徹甲弾射撃の時だったのだろうか?
確かその時は前日に榴弾及び機関銃撃をした記憶がある。
さらに、その日には月刊PANZER誌の取材が来ていたのではなかったのだろうか?
すると、陸曹候補生課程入校の数日前だから1983の6月になる。
第1次試作車の技術試験になるのだから砲塔は付いてるはずだよな。
謎は深まるばかりだ。自分の体験したことなのにな。