メルカバ戦車のコンセプト(概要)
メルカバ戦車のコンセプト(概要)
実戦場において任務達成のために最も重要なことは「生き残ること」である。
タル将軍が言ったのか他の将軍が言ったのか忘れた(確認できなかった)がイスラエル戦車の理念といえる。
メルカバはチーフテンの代わりとなる戦車であり、チーフテンに倣い、当初は前方エンジンであるが、低姿勢を目指していたようだ。しかし、1973年に起こった第4次中東戦争(10月戦争またはヨム・キプール戦争)においてオールタンクドクトリン(戦車主義)の欠点が露呈し、設計変更が行われたと考えられる。
メルカバ・試作車(センチュリオン戦車流用)
オールタンクドクトリンは戦車部隊を主とした戦法であり、空飛ぶ砲兵こと地上攻撃機の近接航空支援を受けた戦車部隊が敵戦線を突破し後方をかく乱殲滅する、いわゆる「電撃戦」である。
戦車のスピードと衝撃力を余すことなく発揮するためには戦車に追随できる砲兵が必要であるが、当時のイスラエルにはそんな高速自走榴弾砲は持ち合わせていなかった。そのために、イスラエル空軍の航空優勢による近接航空支援が砲兵の代わりとなったのでる。
1967年6月に起きた第3次中東戦争ではドクトリンがはまり僅か6日で終わったために「6日戦争」とも呼ばれている。
ところが、1973年10月に起きた第4次中東戦争は全く異なる戦闘様相となった。
イスラエルの戦法を熟知したアラブ諸国は充分以上の対抗策を講じた上で奇襲をかけてきた。速やかに対応したつもりのイスラエル軍だったが大量配備された対空ミサイルにより、空軍の近接航空支援が受けられないまま敵の仕組んだ対戦車トラップに入り込んだイスラエル戦車部隊はサガーミサイルとRPG-7やPGS-9などの対戦車兵器により壊滅的打撃を受けた。
オールタンクドクトリンでは陣地戦において脅威となる対戦車砲に対し戦車の突進により蹂躙することで対戦車砲陣地を沈黙させるものであった。ところが通常以上に装備された対戦車火器、特に歩兵が軽易に使用できるRPG-7の大量使用は想定外だったのである。
第4次中東戦争は辛うじてイスラエル側の勝利に終わったが、戦車部隊の損害は計り知れなかった。
第3次中東戦争時、イスラエル機甲部隊強化のために導入される戦車については大きく3案あった。
1、 センチュリオン、パットン戦車などの中古戦車を大量輸入し国産改造化
2、 改修型チーフテン戦車の輸入
3、 国産戦車の開発
第3次中東戦争後、チーフテン戦車の共同開発による輸入はアラブ諸国の横やりを受け破棄となり国際社会で孤立したイスラエルは国産戦車開発か中古戦車の改造かの2択しかなかった。
チーフテンの件もあり、中古輸入戦車も即戦力としては有用だが長期的展望に立つと国産開発による戦車が望ましいと判断され1970年に予算が付き国産戦車の開発がスタートした。
メルカバ・マーク1
第4次中東戦争での損害状況を徹底的に調べ上げた結果、イギリス製センチュリオン戦車の堅牢性とアメリカ製M48パットン戦車の広い戦闘室がもたらす乗員の疲労軽減による戦闘継続性が新国産戦車(メルカバ)に必要とされた。
この、イギリス、アメリカの戦車の良いとこ取りをして乗員を戦車中央に配置し全周防御を施したのがメルカバ戦車になるのである。
ただ、その代償として車体の大型化(特に車体幅)と60tを超える大重量は避けられないという事が唯一の欠点であったが、自国専用戦車として開発されるため問題は低いといえた。
メルカバ・マーク2
メルカバ・マーク3
余談だが、ドイツのレオパルト2、アメリカのM1戦車共に開発時の予定重量は45tという事で、インフラ上(ドイツ)、予算上(アメリカ)この予定重量を超えることは認められないとされていたが、結果的には両者ともに予定重量を10tあまりオーバーした55t程度で完成しているのでメルカバ戦車の開発動向が影響しているのかもしれないと愚考する。