2019/09/23 【政治学/心理学/スピリチュアル】「権力者」とは? | パムのてきとーブログ

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「国家」を運営する「行政府の長」は事実上「政治的最高権力者」であり、
「政治的最高権力者」は、世界的に見るとあらゆる形態があります。

<参考>
○元首--Wikipedia--
https://00m.in/Ti6Bs


 1.絶対君主制
   (1)君主直接支配
   (2)絶対君主制の連邦体制
 2,立憲君主制
   (1)君主主導
   (2)儀礼上の君主
 3.共和制
   (1)大統領制(首相ナシ)
   (2)大統領制(首相;補佐役)
   (3)半大統領制(大統領・首相に実権/大統領の権限が強力)
   (4)儀礼上の大統領
   (5)社会主義国家(各国で実権に差異アリ)
 4.専制国家・軍事国家・独裁政治国家
   ※形式的には「共和制」だが「特定の集団」が権力を掌握し、実質的に「非民主的な統治形態」になる。
 6.その他
   (1)イスラム共和制


さて、この「政治的最高権力者」は遊んで暮らしているのでしょうか?
更に言うと、「政治的最高権力者」は「貧困層」を軽視しているのでしょうか?

「政治イデオロギー」も多種多様です。

<参考>
○政治イデオロギーの一覧 --Wikipedia--
https://00m.in/UUxoc

歴史上の、「政治的最高権力者」は遊んで暮らしていたのでしょうか?
現実には「専制君主」「封建領主」であっても、「領民の事を考慮した政策」をしている「政治的最高権力者」もいるのです。
(「解決策」として「侵略戦争」をする事もありましたが・・・)

<参考>
○黄河#流路変遷と治水 --Wikipedia--
https://00m.in/voJoQ

黄河下流域は膨大な土砂の堆積によって天井川となっているため、古来よりたびたび氾濫し、大きく流路を変えてきた。
それらの元流路は黄河故道と呼ばれている。
黄河の治水は歴代王朝の重大な関心事の一つであった。


○中世の都市人口 --中世ヨーロッパの風景--
https://00m.in/JUJTC

5.中世後期の人口減少
さて、順調に右肩上がりを続けてきた西ヨーロッパの総人口グラフは、14世紀に入ると劇的に減少してしまいます。
いったい14世紀に何が起きたのでしょうか?
11~13世紀、農業技術の進展によって養える人口が画期的に増えたことはお話しましたね。
14世紀にはいると、その農作物の供給が頭打ちになり、養える人口は限界に近づきました。
さらに、気候不順により飢饉が頻発します。
1315~1317年の飢饉では、3年間にわたる長雨がピレネーからロシア、スコットランドからイタリアまで多数の死者を出しました。

(略)
この数字が正確でないとしても、まさに猛威といえるでしょう。
全体を通じてヨーロッパの総人口の4分の1~3分の1が失われました。
都市や島嶼での死亡率はさらに高く、50%をこえたところさえあります。
廃村となった荘園も数多く、農村の方がましとはとてもいえない状況でした。

つけ加えるに、14世紀はイギリスとフランスが百年戦争(1337~1453)をはじめた時代でもあります。
かくして、西ヨーロッパの14~15世紀は、飢餓・悪疫・戦争の時代となった
のです。
動揺し、混乱し、
 「死を忘れるな」(memento mori !)
が合言葉となる中世末期の社会は、やがてルネサンスへ進んでいくことになります。


○御救小屋(おすくいごや) --ヒストリスト[Historist]--
https://00m.in/lcOKe

江戸時代,飢饉・火災・水害などの際,窮民を救済するためにたてられた仮小屋
江戸では,1786年(天明6),1829年(文政12),34年(天保5)のものが有名で,施行小屋を設置し,窮民を収容して食事を与えた。
天保期以降では,窮民に元手銭を与えて自立をはからせた。


とは言え、「政治的最高権力者」が暴走する事もありました。
その結末は「自業自得」と言っても良い結末でした。
<参考>
○ルイ16世 (フランス王)--Wikipedia--
https://00m.in/efJuq

ルイ14世、ルイ15世の積極財政の結果を受け継いだため、即位直後から慢性的な財政難に悩まされ続けた。
それにも関わらず、
イギリスの勢力拡大に対抗してアメリカ独立戦争に関わり、アメリカを支援するなどしたため、
財政はさらに困窮を極めた。


1793年1月21日午前10時22分、シャルル=アンリ・サンソンの執行により革命広場(現コンコルド広場)でギロチンで斬首刑にされた。
これに先立って、革命前に「人道的な処刑具」としてギロチンの導入が検討された際、
その刃の角度を「斜めにするように」と改良の助言を行ったのはルイ16世本人だった。


○玄宗 (唐)--Wikipedia--
https://00m.in/KLyVG

天下泰平の中で玄宗は徐々に政治に倦み始める。
737年、寵妃武恵妃の死去により、玄宗は新たに寵愛に足る美女を求めた。
740年、玄宗の息子寿王の妃となっていた楊玉環が見いだされ、玄宗の寵愛を得てたちまち皇后に次ぐ貴妃の地位に昇った。
いわゆる楊貴妃である。
玄宗は楊貴妃に溺れ、長恨歌に
 「これより皇帝は朝早くには朝廷に出てこないようになった」
と歌われるごとく、政務への弛緩がめだつ
ようになった。


755年に楊国忠が安禄山を玄宗に讒言したことが契機となり、自身の立場に危機感を覚えた安禄山は、ついに叛乱を起こした。
安禄山の安氏と、その部下でその後安氏に代わって叛乱勢力を主導した史思明の史氏との2字を取って、この叛乱を安史の乱という。


譲位して太上皇となった玄宗は、戦乱が収まって長安に戻ったのちもなかば軟禁状態で余生を送り、762年に死去した。


○治承・寿永の乱--Wikipedia--
https://00m.in/MNFQU

平氏の隆盛
平安時代末期、朝家・貴族内部の権力闘争が、保元の乱・平治の乱といった軍事衝突に発展するようになった。
こうした内乱で大きな働きをした平清盛は、
対立を深める後白河上皇と二条天皇の間をうまく渡り歩き、さらに摂政近衛基実と姻戚関係を結ぶなど、
政界に於ける地位を上昇させていく。
清盛の地位向上に伴い、平氏一門の官位も上昇、知行国を次第に増やしていった。
二条天皇が崩御すると六条天皇が即位するが、後に高倉天皇が即位する。
この間、清盛は後白河上皇と政治的に接近して更に栄達を遂げ、仁安2年(1167年)には太政大臣に就任。
朝廷内における発言権を大いに増すこととなる。


治承三年の政変
治承3年(1179年)11月、清盛のクーデターにより後白河法皇の院政は停止される。
また、このクーデターによって摂政基房は解任され、代わりに清盛の娘婿の近衛基通が摂政に就任する。
また、院近臣の多くが解官された。

翌治承4年(1180年)2月、高倉天皇は言仁親王(安徳天皇)に譲位、高倉院政が開始される。
3月、高倉上皇は清盛の強い要請により厳島神社への参詣を計画するが、
先例を無視するものとして畿内の寺社勢力は猛然と反発する。
また、この政変で平氏の知行国は17か国から32か国に急増するが、
このことは全国各地において国衙権力を巡る在地勢力の混乱を招いた。

東国においてはそれまでの旧知行国主のもと国衙を掌握していた在地豪族が退けられ、
新たに知行国主となった平氏と手を組んだ豪族が勢力を伸ばすなど、
国衙権力を巡る在地の勢力争いは一触即発という状況となった。


壇ノ浦の戦い
屋島の戦いの後、瀬戸内海の制海権を失った平氏軍は長門へ撤退する。
熊野別当湛増が率いる熊野水軍や、河野通信らの伊予水軍を始めとする中国・四国の武士が続々と義経軍に加わり、
時を同じくして範頼軍が九州を制圧したことで、平氏は完全に包囲される形となった。
元暦2年(1185年)3月24日、関門海峡の壇ノ浦で最後の戦いが行われた(壇ノ浦の戦い)。
序盤は平氏が優勢であったが、やがて劣勢となっていく。
阿波水軍の裏切りもあり平氏の敗色が濃厚となるに従って、
平氏の武将は海へ身を投じていき、安徳天皇と二位尼も三種の神器とともに入水した。
この戦いで平氏は滅亡した。



このように、「政治的最高権力者」であってもその権力で暴走すると悲惨な結末になります。
「自業自得」「因果応報」ですね。
<参考>
○カルマ(業)--仏教ウェブ入門講座--
https://00m.in/hwJSn

同じ事は「責任ある立場の人」全てに言えます。
「責任ある立場の人」が、
 「こいつウゼェ!」
と、思う人を排除したりとか、横暴な振る舞いをすると、その「悪業」は自分に降りかかって来ます。