息子は白血病と診断された2005年5月より3ヶ月前に朝、けいれん発作を起こし入院した。2月の寒い朝、息子を起こし1階のキッチンでお弁当を作っていると2階で椅子が倒れたような音がした。椅子でも倒したのかな?と思っていると続いて「ガタガタ」と大きな音がし始めた。階段の下から息子の名前を読んだが返事が無い。他の家族はまだ皆眠っている。気になって階段を上って行くと「ガタガタ」という音が次第に大きくなって来た。階段を上り切ると、すぐにトイレがあるのだがそこから「ガタガタ」という音が聞こえて来るのでドアを開けると息子が前のめりにトイレのタンクに突っ伏すように倒れ「ガタガタ」とけいれんを起こしていた。私は「拓!」と大声で息子の名前を叫んだ。私の声に夫と長男が起きてきた。私は成す術もなく立ち尽くしていたので夫が息子の身体を抱え、廊下に寝かせた。息子は息が出来ないように見えたので私は夫に「身体を横に向けて!」と言った。騒ぎに階下の私の両親も起きて来てその様子に驚き、「救急車呼ぼうか!?」と言ったので電話を頼んだ。そして私が電話で様子を伝えた。しばらくして救急車で3ヶ月後に白血病で入院することになる病院へと搬送された。


病院の救急で若い医師から「てんかん」だと思うと伝えられ、外来の診察時間になってから神経内科で検査をしてもらったが2,3日入院して検査、薬の副作用等を診ると言われ入院することになった。この時は3ヶ月後にもっと辛い病名を聞かされことになるとは夢にも思わず、「てんかん」という病にシヨックを受け「何で、この子がこんな病気に・・・」と泣いた。この後、最後まで白血病の辛い治療とけいれん発作に苦しめられることになろうとは・・・この「てんかん」は白血病と関係があるとは聞かされなったが、息子は17才から最後の時までこの2つの病に苦しめられたのだ。

2006年2月、いよいよ移植前の前処置が始まりました。3日間にわたって大量の抗がん剤と朝夕に行う致死量を超える全身放射線照射。


福島の原発事故による人体に影響する放射物質の量などニュースでよく言われているので5年前の息子の前処置で照射された放射線量を調べて見て、本当に致死量をはるかに超す量だったんだなぁとわかりました。


抗がん剤初日、私が病院に行くと朝の抗がん剤は終わっていて、息子は嘔吐に苦しんでいました。こんな状態で午後、放射線照射なんて出来るんだろうかと思うくらい苦しそうでした。


午後、放射線照射のため私もついて行き部屋の外の椅子で待っていました。

待っている間、こうしなければ息子は助からないんだと思いつつ、息子の身体が抗がん剤や放射線によって傷つけられていく・・と思うとかわいそうで、つらくて1人椅子に座って泣いていました。


放射線が終わると、なぜか足が痒くなり始め、痒み止めの点滴をしてもらいました。

また翌日も朝夕、照射があるのですが箱のようなものに入って身動きしてはいけないということだし痒みをこらえて身動きできないのは余計大変なことなので心配でした。


嘔吐に苦しみながら3日間の前処置が終わり放射線照射から車椅子で戻ってきた息子はそのまま無菌室へ入ることになりました。これから移植後、落ち着くまでは息子に触れることもできません。ガラス越しにインターフォンで話すことしかできません。車椅子で戻って来た息子に駆け寄り、手を握り「頑張って!」とそれしか言葉になりませんでした。

今日8月4日はつらい日だ・・


2年前の8月4日・・・診察日でマルクをした。


帰りに息子と2人、昼食を取り、行ってみたかったケーキ屋さんでケーキを食べた。


こんな日がこれからも続くのだと思っていた。


1週間後、主治医からの電話。8月4日のマルクの結果、再発していることがわかっ


た。


そして、昨年の8月4日・・・退院を1週間後に控え、呼吸も苦しく目も満足に開けら


れない状態だったけど、看護師さんや先生方と写真を撮ったりしていた。


夫が夕方仕事を終えて病室に来るなり「何か、アイスクリームが食べたくなった。


買いに行こう」と言い、「え~私も行くの?」と言いながら病室を出ると、急に真剣な


表情になった夫が「落ち着け。また再発した。今、先生から聞いた。先生は「お母さ


んが病室から出て来るのを待ってたんです」と言っていた。」と言った。


目の前が真っ暗になった。そして主治医からの説明があった。


今日、その時間が近づいて来たとき胸が締め付けられるようだった。


なんで、この子ばかり、こんなつらい目にあうの!?