510粒目 「橋下×みの 報道の自由とプライバシーと親の責任」 | 砂のブログ

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「線は無数の点から成り、…」で始まるボルヘスの
“砂の本”の様に、始まりも無ければ終りも無い
日々の営みの中で感じたことや思いついたことなどを
つらつらと綴っていこうかなと、ね。

先日、
たまたま観た

テレ朝の「橋下×羽鳥の新番組(仮)」
という番組で

“報道の自由”
“タレントのプライバシー”
“親の責任”

などについて語る

橋下氏と
みのもんた氏(ゲスト?)が
バカすぎて

ふるえる。




そもそも、

政治家というのは
乾坤一擲
粉骨砕身
心血注ぎ国民の為に
働くのが当たり前のことで

それを仕事として
大切な血税から
給料が貰えるだけ
有難いってなもんでさ

我々の血肉を
金に替え
飯を喰らい
己らの血肉にし

しかも、
国民から“選んで貰った”
立場なんだから

一言一句
一挙手一投足を
余すことなく監視され
プライバシーなど無いのは
当然でさ

それが嫌なら
最初から政治家になんて
なるなよってこと。



聖職と言われる
尊く価値のある仕事は
幾つかありますが

尊く価値のある人間だから
なれたわけでも

その仕事に就いてるから
尊く価値のある人間だ
というわけでもなく

仕事の内容や
結果次第でしょう?


影響力のある
メディアで働くタレントや
国民の為に働く政治家が
プライバシーを監視されるのは
当たり前のことで

じゃあ、

例えば仕事以外の
プライベートに関して一切
関知されなければ
どうなるか?

地位名声権力富を
利用して
善からぬ事を
やりたい放題し放題
しでかすだろうことは
絶対確実決定的に
分かりきってることでさ

タレントや政治家は
メディア
を利用し
と癒着し
利を得たりなど
相互関係も成立してる
わけでさ

やらかすバカが
一人でもいる限り
プライバシーだの何だのと
騒ぎ喚ける立場ではない

と。




みの氏が
自身の息子の件を振り返り

親の責任ってのは
どこからどこまでなのか
議論をしてくれと
結論が出せるなら従いましょう
などと述べており


バカじゃなかろうか?
と、

その議論の余地も無い
当たり前のことの
線引きと結論を言えば

親の責任ってのは
その子どもを
生み育て一人の人間を
作った者としての
責任なわけで

その子が
生きていようが
死んでいようが
未成年でも成人でも
関係無く問われるのは
当たり前のことです。


自身の子が罪を犯したが
一人前の社会人として
独立しているとしてもさ

その子を
この世に生み落としたのは
誰さ?

その子を生み育て
人間性の形成において
重要な影響を及ぼしたのは
誰さ?

親、
でしょう?


子が、
親の責任をとる
“必要”は
全くないけど

親が、
子の責任をとるのは
“義務”でさ

それは
親が死ぬまで
抱える責任と義務でさ

それが嫌なら
理解が出来ないなら
初から作るんじゃあねえよ

ってこと。



ていうか、
みの氏が叩かれるのは
人間性の問題による
彼を嫌悪する人間が多いせいで

それで子どもにまで
火の粉がかかったとしても
その責任は
みの氏にあり
他に転化することは
筋違いだよ。




橋下氏は、

子どものすること
全てに責任をとらされたら
親なんて
できませんよ

と、
述べ

うちは子どもが多いので
“リスク”が高すぎる

とも、
述べました


はあ?
リスク?

彼は
上記した
親の
責任と
義務を
理解していない
だけではなく

一個の生命体に
その人生に
関わることに対して

リスクと。


予定外想定外
だけど
リスクが低いから
産んだ子

自身が
この世に生まれた理由が
そんなだったら

その子が
どう感じ
どう思うか

全うな人間性であれば
分かるはずなのにさ

こんなバカが政治家を
やっていたわけで


ホント、
ウンザリです。