<都督>

軍を解散し、漢中に帰還したのはよいが、
漢中が発展し尽くしたので、
内政ですることがない。

別の都市に異動したいが何処がよかろう…

最初の任地である
幽州のに戻るのもよいが、
やはり前線の都市に行くべきか。

最前線は益州の成都なのだが、
能力不足のせいで、
袁尚は州都の太守には任じてくれない。

まあだが、兄が自ら提案すれば、
断るようなことはしないであろう。

217年1月
袁煕成都への異動を提案し、
成都太守に就任する。

ついでに朋友となっている
馬良を同志に迎える。

217年4月
都市評定後、
越巂攻略を命令され出陣。



とは言え、単独で先行しても
返り討ちあうだけなので、
成都近郊の犍為の城塞に陣取り、
全軍の集結を待ってから進軍する。

厳顔率いる軍勢とで激突。

兵力は倍以上で、尚且つ、
馬超文醜龐徳らを猛将を
従えているのだ。
こちらが負けるわけもなく、
厳顔らを敗走させ、
その勢いのまま越巂も陥落させる。

次は永昌かとも思ったが、
孫権軍が建寧攻略を開始しているため、
兵力温存の安全策を採り、
全軍解散となる。

越巂陥落の同月、
孫権軍によって、劉璋軍の建寧が陥落。

孫権も抜け目がないな。

周倉勢が牂牁を陥落させた後、
袁尚自ら出陣し、永安を陥落

劉璋軍を永昌に追い詰める。

218年3月
成都も発展したので、
次は隣の江州に異動する。

218年7月
張遼勢が会稽を陥落

218年11月
馬超勢が建寧を陥落
張遼勢が建安を陥落

孫権軍を揚州から駆逐する。

219年4月
合浦への出陣要請を受けたので、
袁尚率いる軍に合流し
孫権軍と戦うも…



関羽諸葛亮を引き連れていながら
仇敵の淩統を目指して
単独で先行した袁尚が軍勢を壊滅させ、
総大将を失った我が軍は
総崩れとなり敗退してしまう。

孫権、侮り難し。
いや、我ら兄弟が無能なのか…

220年1月
顔良南海を陥落

220年5月
文醜交趾を陥落

220年9月
劉璋が病死し、
子の劉循が後継する。

翌月、
劉循申軍に降伏し、
劉循軍は滅亡する。

賢い選択だな。
次は孫権か。

221年1月
長女の袁綏が成人する。
(内政要員としては悪くないか)
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袁綏(景姫):長女 (甄氏との娘)
統率:25、武力:79、知力:65、政治:64
理想威名:武術師範、重臣特性:兵站管理
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221年4月
地道に内政を行い、功績を挙げた袁煕は、
二品官となり、都督に就任する。



翌月、
袁煕沮授と共に南海を陥落させ、
孫権軍を滅亡させる。





都督の名に恥じぬ活躍。

袁尚はこの兄に、
中華の半分を任せてくれるらしい。



残るは劉琮軍のみとなった。

長らく同盟関係であったが、
決戦の機運が高まり、
外交関係が解消される。



南海から帰還した袁煕は、
荀彧を軍事重臣に
歩隲を内政重臣に
蹋頓を軍事重臣に任命する。



烏丸である蹋頓
軍事の重臣とすることに逡巡はあったが、
長年、同志として支えてくれたのだ、
報いないわけにはいくまい。

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烏丸=烏桓

匈奴に滅ぼされた東湖の生き残りが、
烏桓と鮮卑になる。

丘力居:遼西烏丸の大人(部族長)、王を自称
難楼 :上谷烏丸の大人(部族長)、王を自称
蘇僕延:遼東属国烏丸の大人(部族長)、峭王を自称
烏延 :右北平烏丸の大人(部族長)、汗魯王を自称

蹋頓 :遼西烏丸の大人(部族長)、丘力居の従子
楼班 :遼西烏丸の単于、丘力居の子

丘力居の死後、子の楼班が年少だったため、
蹋頓が代わって立ち、三王の配下を統括した。

蹋頓は、公孫瓚を討つ袁紹に味方して、自身の権力基盤を強化。
袁紹は偽の詔勅を発行して、蹋頓・難楼・蘇僕延・烏延らに
単于の印綬を授けてやった。

楼班が成長した後、難楼・蘇僕延は楼班を単于に推し立て、
蹋頓を王に降格した。

蹋頓は、袁尚・袁煕を助けて曹操と戦うが、
白狼山の戦いに敗れて、曹純に斬られる。

楼班・蘇僕延・烏延は、袁尚・袁煕と共に遼東に逃れたが、
遼東太守の公孫康に斬首される。

難楼は、那楼と同一人物だと考えると、
楼班らが斬首された後に曹操に帰服したと。
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都督になった。
後は天下統一するだけだが、
いつもの様に、
娘と息子の成人がまだなのだよ。

積極的には攻めずに
袁尚の判断に任せるか。

ただ、官渡の戦い辺りで
亡くなった者たちの
寿命が尽きそうだな。