<禅譲>

袁尚軍は劉琮軍と同盟

君主軍事重臣に就任している
諸葛亮の策であろうか。

これで連合によって
包囲網を敷かれる心配も減った。

214年5月
司馬懿らの軍勢が漢中を陥落
張魯軍が滅亡する。

袁煕漢中への異動を了承し、
漢中太守となる。

この異動で、
徐晃韓浩らが配下から外れる。

徐晃を失うのは痛いが、
徐晃ほどの功績を持つ者を
いつまでも
太守配下にしておくのは
袁家にとっては損失であろう。
致し方ない。

沮授が空白地の武都を陥落

翌月
顔良らの軍勢が安定を陥落

袁煕が頑張らなくても、
涼州の制圧は進みそうだ。
しばらくは赴任したばかりの
漢中の統治に尽力するか。

214年11月
賈詡が空白地の上庸を陥落

翌月の
214年12月
袁尚献帝より禅譲を受け、
申王朝を建国する。





四世三公の名門である袁家が
漢王朝を滅ぼすことになるとは…

勝手に王朝を打ち立てた
叔父の袁術よりはましであろうが、
ご先祖様は泣いているかもな。





申王朝を建国した同じ月、
辛憲英との間に次男が産まれ、
袁維(仲綱)と名付ける。

(維持の「維」、
 袁家をささえる者となるのだ)

215年4月
出陣命令を受け、
袁煕は劉璋軍の梓潼へ向け出陣。



翌月には、
張飛勢が武威を陥落させ、
馬騰軍が滅亡する。

袁煕顔良らの軍勢が、
梓潼近郊の剣閣の破壊で
手間取っている間に…

215年9月
沮授文醜張郃らの活躍で、
孫権軍の本拠地、建業が陥落

最早、孫権も敵ではないな。

翌月、賈詡張遼司馬懿
袁煕らによって梓潼も陥落



成都への侵攻は次の機会として、
益州方面軍は解散する。

揚州方面軍は、
蘆江も陥落させた後、解散。

翌年には再び出陣し、
揚州では、
関羽豫章張飛を陥落させ、
益州では、
賈詡江州
趙雲文醜袁煕らが成都を陥落させる。



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袁煕の子孫

袁恕己:唐の中宗の宰相

袁建康:袁恕己の子、淮陽太守
袁高 :袁恕己の孫、給仕中(正五品上)

唐の時代、給仕中は給仕をする下級役人ではなく、
門下省に属す、天子の詔勅を審議する要職らしい

袁德文:袁高の子、秘書省の校書郎(正九品上)
袁進朝:袁高の孫、成都少尹
袁忠義:袁高の曽孫、忠武軍節度判官、贈司空
袁敬初:袁高の玄孫、太府卿(従三品)
    駙馬都尉(妻が朱全忠の妹)、贈司徒
袁象先:袁高の来孫、宋州(河南省)節度使
    贈太師兼中書令、追封楚国公

袁象先は、
後梁の初代皇帝、朱全忠の甥として、権力を握り、
朱全忠を殺害した二代皇帝の朱友珪を
宮中クーデターで自害させ、朱友貞を即位させる。
後梁滅亡時は、
後唐の初代皇帝、李存勖に服従を誓い、李紹安の
名を貰って、仮子の一人になり、権勢を維持した。

袁正辞:袁象先の長子、衢州刺史、雄州刺史を歴任
袁山義:袁象先の次子、後周の滄州節度使

思ってたより、袁煕の家系は栄えているな。
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袁尚の寿命がくる前に、
天下統一されるな。

いずれ君主になるからと思って、
勲功を稼いでいなかった…

皇帝の兄としては、
なんとか二品官になって、
一太守ではなく、
都督で統一を迎えたいところだが…