<反袁尚連合>

孫権軍が寿春へ、馬騰軍が弘農へ、
劉備軍が許昌へ出陣する。



許昌に居る献帝を護らねばなるまい。

袁煕許昌に向け出陣。

から許昌は少しばかり遠いな。

兵を休ませながら進軍しないと
兵の士気が下がってしまう。
だが、許昌が陥落してしまっては
元も子もない。

行軍中の袁煕の元に、
妻の甄氏より手紙が届く。



急ぎ妻の元に戻った袁煕は、
産まれた娘に
袁綏(景姫)と名付ける。

袁尚らの部隊が壊滅し、
城門が破られる寸前の許昌に到着。

関羽張飛趙雲諸葛亮らの軍勢を前に、
徐晃を前面に立て善戦するが、
力及ばず敗北してしまう。



210年11月
許昌が陥落し、
皇叔の劉備が後漢皇帝を擁立する。

同月、
弘農も馬騰軍によって陥落

後の対処は袁尚に任せ、
に戻った袁煕は、
反攻作戦に備え、
兵の訓練に精を出す。

211年7月
反袁尚連合が解散

翌月、
孫権軍によって広陵も陥落

許昌弘農広陵
さらに後漢皇帝を失い、
攻勢だった孫権軍との戦いも
守勢にまわってしまった。

袁尚は勢力評定で
劉備軍打倒を採択し、
許昌汝南の攻略を開始する。

兵の訓練を終えた袁煕は、
「虎豹騎」を編成し、
許昌に向けて出撃。



さて、策もなしに、
関羽張飛趙雲を擁する
劉備軍に勝つことができるのか…

どうやら心配は杞憂だったようだ。

許昌汝南を同時に攻められた劉備軍は
将と兵を分散させてしまい、
圧倒的な兵力で押し寄せる袁尚軍に敗北。

211年9月
袁煕が到着する前に
司馬懿勢が許昌を陥落させ、
袁尚後漢皇帝を再び擁立する。

翌月
袁尚軍の曹休汝南をも陥落

徐庶馬良らの将が捕虜となったうえ、
劉備軍は兵を損耗している。

許昌に駐留している袁煕は、
に向け進軍。

袁煕勢は、近郊の博望
劉備勢と激突する。

この戦いで、
袁煕配下の徐晃劉備を討つ



劉備軍は義弟の関羽が後継

当代の英雄、曹操に続き、
劉備もこの世から消えるとはな。

そのままの勢いでを攻略。

212年1月
逆上し冷静を欠いた関羽張飛
徐晃が軽くあしらい、
難なくを陥落させる。





残るは新野だが、
その前に馬騰軍に備えて
武関を押さえ、
を制圧して城塞を築いておく。

これで万が一攻められても
時間稼ぎができるだろう。

新野に向け行軍中の袁煕の元に、
妻の甄氏より手紙が届く。



産まれた娘に
袁繍(麗姫)と名付ける。

二人目も娘か…
これは困ったな。
今後のことは戦の後に考えるとするか。

212年4月
新野も陥落させ
旧劉備軍の関羽軍を滅亡させる



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袁家も代替わりしたので、
袁紹没後の史実の配下を確認。

・袁尚配下
逢紀、審配、審栄、沮鵠、陳琳、牽招、
郭援、呂曂、呂翔、蘇由、張顗、李孚

・袁譚配下
郭図、辛評、辛毘、王脩、管統

・袁煕配下
張南、焦触

・その他
高幹、董昭、閻柔、辛憲英、辛敞

沮授の子の沮鵠と審配の甥の審栄、
辛毘の子の辛憲英、辛敞くらいしか
袁紹世代の血縁者は登場しないのか。
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反袁尚連合に領土を削られ
一時はどうなるかと思ったが、
思いのほか早く攻勢に転じることができたな。

しかも、劉備が討ち死にするとは。

袁尚に任せても大丈夫そうなので、
袁家の後継者を得るために妻を探すか。