<許昌包囲>

濮陽まで落とさねば、
官渡を制圧した意味がない。

各地より軍勢を済北に呼び集め、
濮陽に向け進軍させる。

さらに、再び、
劉備への攻撃要請を行い。
へ向け劉備軍を出陣させる。

そして、袁紹は再び官渡に出陣。

袁紹は、曹操の従弟、曹洪
曹操軍、古参の将、史渙を討ち取り、
曹操の撃退に成功する。

205年9月
劉備軍がを陥落。

劉備もついに成したか。

曹操打倒後は、
馬騰、孫権、劉備
何れかと戦わねばならぬが、
一先ず、
同盟者の勝利を祝うとしよう。

翌月、
済北より出陣させた、
顔良を総大将とする軍が
濮陽を陥落させる。

翌年の
206年1月
袁紹官渡より帰還し、
濮陽で捕虜とした夏侯惇を処断する。



夏侯淵曹操に仇敵とされたが、
この戦いはどちらかが死ぬまで続くのだ。
儂に迷いはない。

206年7月
妻の劉氏が病死する。

喪に服したいところではあるが、
今、各地より兵を集合させている。
今更取りやめることなど出来ぬのだ。

顔良、文醜らの軍勢を
に向け出陣させる。

袁紹は、袁煕、袁尚らの軍勢を従え、
陳留に向け出陣する。

206年8月
顔良、文醜らがを陥落

翌月、
残存する兵力を集結させた
曹操の軍勢を蹴散らした袁紹は、
陳留を陥落させる。

この戦いで、
袁尚が戦功第一となる。



これで皆も納得するであろう。
袁家を率いるのは袁尚であると。

206年12月
顔良と合流した袁紹は、
虎牢関に続き、洛陽を陥落

函谷関も落とした後、
207年3月
袁紹弘農も陥落させる。

曹操の領地も残るは
許昌のみとなったか…



儂と曹操は旧知の仲、
降伏するというのなら、
生かしておいてやらぬでもない。

儂自ら使者となり、
「勧告」を行うとしよう。





「わしを愚弄する気か!」

降伏を勧める袁紹を、
曹操は一喝する。

そして、帰途に就く袁紹
曹操自らが襲撃してくる。



袁紹曹操は一騎討ちを行い、
袁紹は手傷を負うものの、
命からがら逃走する。



旧友の儂を殺そうとするか…

当然だな。
儂でも同じことをするであろう。

これで儂も心置きなく戦える。

に帰還した袁紹は、
捕虜となっている曹操の息子、
曹彰、曹植を処断。

そして、
久しぶりに勢力評定を開催し、
袁紹が自ら提案する
曹操軍の打倒を採択させ、
許昌に向け出陣する。



四倍以上の兵力を持って、
許昌を攻め、曹操軍を撃破。



207年11月
許昌を陥落させ、曹操軍を滅亡させる

後漢皇帝を擁立した袁紹
公に任命される。

曹操の一族である
夏侯淵、曹仁、曹純

さらに、息子の曹丕を処断した後、

かつての友であり、宿敵でもあった
曹操を処断する。



「やれやれ、曹孟徳にして慢心あり、か」

さらば、曹孟徳。

まだ幼い曹冲や娘の曹節らは解放しよう、
女子供まで処断しては
世評が下がるというもの。

問題は、曹操と絆の深い荀彧の処遇だが、
潁川の名士である荀彧を処断しては、
士大夫の指示を失いかねない。

ここは生かしておくこととしよう。

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袁紹、字は本初

本初は、
後漢の質帝劉纘の治世にあった元号。

146年で、この年に、祖父の袁湯は、
司空となり、安国亭侯に封じられている。

名の「紹」には、
前代の事業・国家・家などを受け継ぐ
という意味があるから、

自分こそが、汝南袁氏を継ぐもの
という気概が感じられるような気が
しないでもないな…
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曹操軍を滅ぼした。

曹操を袁紹の手で処断し、
プレイの目的は達成した。

後は、袁煕で袁尚を補佐し、
袁家での天下統一を成し遂げるか。

君主プレイではなくなるが、
袁尚はうまくやってくれるだろうか…