<鄴籠城戦>

曹操が動いたと同時に、
馬騰曹操の支配する長安へ向け出陣。

袁紹馬騰に親善の使者を送り、
要請に応え、馬騰軍に兵糧を贈る。

201年12月
袁紹での籠城戦を選択し、
曹操軍とのでの攻防戦が開始される。



籠城戦を開始した翌月、
袁紹の体調が悪化する。



戦が始まったばかりというに…

ここで引くわけにはいかない袁紹は、
病身を押して戦場に留まり続ける。

202年2月
袁紹軍と孫権軍の同盟が成立



馬騰長安を攻め、
曹操を背後から脅かしてくれてはいるが、
(何故か)兵力、物量共に曹操に劣る袁紹は、
曹操の兵力をさらに削ぐべく、
汝南劉備金を援助し、
曹操の支配するへの攻撃を要請
孫権にも広陵の攻撃を要請する。

202年5月
への攻撃要請を受諾した劉備が出陣。

翌月、外交戦を制した袁紹は、
曹操軍を壊滅させ、籠城戦に勝利する。



まさか、眭元進が戦功第一とはな。
眭元進の官爵を、
淳于瓊と同格に昇格させる。



名品「五岳真形図」を入手し、
体調を回復させた袁紹は反撃を開始。

とは言え、
こちらの被害も甚大である。
の復興を優先せねばなるまい。

袁紹に留まり、
長男の袁譚を総大将とし、
顔良、文醜、眭元進を合流させた軍を
北海に集結させる。

202年8月
孫権広陵への攻撃要請を受諾。
広陵へ向け孫権自ら出陣する。

思いのほか早く、
二ヶ月後には広陵が陥落するが、
広陵近郊の制圧を始めた孫権軍に向け
曹操軍が進軍したのを見計らい、
袁譚琅邪を攻撃させる。



翌年、袁譚琅邪を陥落

顔良琅邪太守に任命し、
周辺の拠点を制圧させる。

半年後、
馬騰長安へ進軍したのを見計らい、
次は次男の袁煕を総大将として、
河内を攻略させる。

より出陣した袁紹も合流し、
二ヶ月後に河内は陥落



河内の太守には
長男の袁譚を任命する。

次は三男の袁尚にも
手柄を立てさせねばのう。

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袁紹の息子達

長男:袁譚(顕思) 青州刺史
次男:袁煕(顕奕) 幽州刺史
三男:袁尚(顕甫)
四男:袁買(顕雍)
甥 :高幹(元才) 并州刺史

「儂は四人の息子にそれぞれ一州を支配させ、
 それによって能力を観察したいと思う」

四人の息子?

四男の袁買は、袁尚の兄の子とも言われるが、
袁買を含めて四人の息子と言っているのか、
それとも甥の高幹は息子同然という意味なのか…

それぞれ一州?

後々、三男の袁尚を冀州刺史に
するつもりだったのか、
それとも曹操を降してから、
兗州刺史にでもするつもりだったのか…

袁譚は袁紹の従兄である、
袁基の養子になっている。

袁基は袁逢の子で、
安国亭侯の爵位を嗣いでいる。

と言うことは、
汝南袁氏の当主は袁譚で、
袁尚は分家の当主を嗣ぐということなのか?
まあ、汝南は支配地ではないので、
本家と分家の力関係は逆転してしまうが…

そういえば、
曹操に帰順した張燕って、
安国亭候の爵位を貰ってるが、
これって同じものなのかな?

汝南袁氏が代々嗣いできた爵位を
曹操は山賊上がりの男に与えたのか??
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袁譚を青州刺史に任命するとき、
禍の始まりであるとして、
沮授は諌止したそうな。

沮授が失脚していないので、
「譲位」を行い、
袁譚に後継させることも可能だが…

まあ、後継は袁尚でいいかな。

袁紹で曹操を滅ぼせれば、
後はどうでもいい。
君主プレイは面倒くさい。